起きたら消すかも、な記事。

 

*少し刺激の強い話が出てきます

 今メンタルが落ち気味の人はそっ閉じで。

 

 

 

この一年間ずっと、ずーっと手放しをしてきた。

老眼になったら絶対に見えないであろう、平均3mmの文字をノートにびっしり書き連ね、今月4冊目を迎えた。


2週間ほどで40ページを消費した。

自分でも正気か、と思う。

 

 

一年前、本来は病院に通うべき心理的病理を「自分で癒やす」と決めたのは、自分にとっては霊的な問題も含まれていたから。

 

もっとも、大学の時に心理学をかじったくらいで、メンタルの安全性を担保できているとは、ならない。

神さまの手を借りるとは言っても「借りたら心理的問題まで解決します」という証明がしたいわけでも、ない。

あくまでも自分自身の自己責任の範囲内であり、いざとなったら病院に行く、という前提で臨んでいた。

 

 

はたして、この間にさまざまな内的できごとが起きた。

身体的反応はある程度予測していたものの、想定していた範囲とはお世辞にも言い難い。

心理的負荷によるストレスも、相当あった。

 

 

気が遠のくような感覚に、正気を取り戻すのにちょいとカッターどこかいな、と脳裏によぎることもある。

しかし、家にはハサミか包丁しかない。

前者は紙やら段ボールやらを切るし、後者はお料理に使うんである。

 

リッパに現役でいる道具をそんなことに使うのはイヤで、「いいか、もう年なんだから治りは遅い。傷跡が残ったら後悔するぞ」と、そのときは自分に言い聞かせて事なきを得た。

正気を取り戻す方法がおかしいながらに、どこか冷静でもいた。

3回くらい、言い聞かせた。

 

 

大きな規範が出てきたと思っても、ほんの入り口にしか過ぎない。

終わりかと思えば、続きがある。


何度も襲ってくる恐怖感は、今ココの現実ではないとわかっていてもリアルで「やはり自分でするのには無理があるのか」と、挫けそうになったことも一度や二度ではない。

 

 

何度も諦めようとした。

それでもやめなかったのは、「違和感に従って」というのもあるけれど、それ以上に「高いノートこれだけ消費しといて途中で引き返せるか!」という、しょうもない守銭奴な気持ちだった。

 

 

送料込み2,180円。

目立たない5mm方眼が見開きでズレておらず、紙の色も目に優しい。

その上ページ番号(ノンブル)までついている189ページのノートである。

 

 (別ページが開きます ※アフィリエイトではない)



見開き左右で位置がズレる方眼にストレスが溜まり、紙の白さに目がくらみ、青い方眼色が目にしみる私にとって、まさに理想のノート。


であるからして、やや高めのお値段にとやかく言う気は全くないが、しかしペイはしたい。

 

途中で引き返したら、これまでの努力も消費したページも、ついでにスタイルフィットのリフィルも水の泡である。

 

 

そう、ブラウンブラック0,28mmリフィル。

早くて4日でなくなるこのリフィルは、私の小さな書き文字を支えているのだ。

TSUTAYA熊本三年坂店の在庫は、ほぼ私が買い占めていると言ってもいい。

取り扱いがなくなったら、鶴屋東館の東急ハンズ6Fまで行かねばならぬ。

TSUTAYA地下一階のアクセスは、なんとしてでも守り抜きたい。

 

 

自分の切実な心理的課題への取り組みを支えていたのは、そんなしょうもなく小さな自分のこだわりだった。

 

 

本当は、ここで「支えてくれた神さま達にありがとう」なんて、言えばいいんだろう。

それは、ウソではない。

実際に心の支えになったのは神さまだったし、ヒントをくれたりもした。

その事実をタテマエに、サービスの宣伝に繋げればいいのかもしれない。

 

 

だけど、正直に言って、自己判断に基づく心理的回復プログラムに、自分の中だけでしかわからない感覚で、それを言っていいのかと言えば、圧倒的にNOだった。

 

 

そもそも「本来は然るべき治療の場で、然るべき専門家が用いる心理療法を自分自身に適応する」ことが、かなり黒に近いグレーゾーンだと思っている。

だから、ここでその方法は書かない。


 

タイトルで「クライマックス目前」と書いたのだって、「多分そうであろう」という推察でしかない。

ひょっとしたら、まだまだ先があってコケる可能性だってあるし、なんならその方が高いとすら思う。

 

 

じゃ、なんでこんな記事を書いたかといえば、なんでだろうな。

もしかしたら、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。

神さまとかなんとか、そういうのをさっ引いて自分のしてきた努力を誰でもいいから、誰かに認めてほしかっただけなのかもしれない。

 

 

刺激に対する反応で大半を過ごしてきた私にとって、自分の内側で感じていることにすぐさま反応せず、「こうかもしれない」と見渡すことすら、時間がかかった。

今でもまだ、その辺はまだ脆弱だろうと思う。

 

 

運気の流れがどう、なんて話もできなくもないんだけど、それこそ今はそんな話をする「流れ」じゃないんだなあ。

なんだろな、結局は運任せ、神さま任せにはできない人間的リアルな話をしたかった・・・というか、やっぱり私が聞いてもらいたかったんだな、と思う(笑)

 

 

でもね、そんな私でも神さまは信頼してくれてもいるんだ。

人が不完全であるものを知り、それでも無条件で受けとめていることを他の誰よりも、神さまたちが教えてくれた。

 

生きることに条件が必要で、人の役に立てば存在が許されると思っていた私にとって、その事実は何よりも絶望的で、救いだった。

だって「何もしない私」なんて、生きる価値がないと思っていたから。

 

 

それでもまだ、条件をつけるクセが少し残っていて、手応え中毒から抜け出せないでいる。

そんな「承認を得ようとする私」を今、静かに見つめている。

 

無条件性を早く獲得したいなあ、と思っているうちは、たぶん手に入らない。

なぜなら、「獲得すること=ご褒美」になっていて、既にそれが無条件性じゃなくなっている。

 

 

「人間に”価値”なんて必要ないのでは?」と思うでしょ。

ところがどっこい、それが「必要ない」とわからない人間もいるのである。

私もまたそのうちの一人で、今それを知る手前で立ち止まっているのである。

 

 

「無条件性を受け入れるのが怖い」と思う時点で、どれだけ条件付きで生きてきたかって話なんだよなあ。

「何言ってんだコイツは。別に初めから無条件だろ」って言える人は、とっても健全なのでそのまま生きていってください。

こちとらアイデンティティ丸ごとマイナススタートなもんだから、ゼロに戻すのにも四苦八苦なんである。

 

 

 

クライマックスを目前にして、どうなるかは神のみぞ知る。

・・・ではなく、私が選択するしかない。

自分の中だけでしか起きていない、受け入れても現実で何も怖いことも悪い事はない、と頭ではわかっていても、いかんせんそれで生きたことがないから、立ち止まる。


 

この記事は、そんな自分への荒療治でもあるかもしれない。

キレイゴトで終わらせず、自分のそんなところを見せても私の存在に少しも影響はない、ということを知ることで、無条件性を知るのだろう。

いや、実際にわかるかどうかはわからないけれど。



続きは、あるんだろうか。

仮にあったら、次は「できたけど、めちゃカンタンなことだった・・・」と、呆然としながらお知らせしたい。



誰が読むのかわからないけれど、ここまで読んでくれてありがとう。

夜更かしのお供になったのか、それとも朝の目覚ましになったのかわからないけれど、ノートの良さだけ覚えてもらえれば嬉しい。



ちょっとしたオマケと、送付担当であるらしい「高木さん」が毎回くれる、なんてことないコメントが、ちょっと楽しみだったりもする。