今日は、蔦屋書店で買った本を読んでいた。
熊本三年坂にある書店の地下は、カードゲームやボードゲームで遊べるスペースがある。
空いているテーブルは、大会がないときや遊ぶ人がいなければ好きに使えるから、今日も学生さんらしき人たちが、本を広げて勉強していた。

そういえば学生の頃、カードゲームで遊んでいたな。
マジックザギャザリング。
ルールは今や、すっかり記憶の彼方。


買った本は「感性を磨く」がテーマ。
だけど、この文章のクオリティで出せるのね、というのが正直な感想。

写真は綺麗だし、海外を旅するフットワークの軽さとか、大切にしていることとか、素敵な感性をお持ちだということはわかる。
だけど、文にうっすら漂う軽薄さが、自分の中でまるで駄目だった。

人に届けるためには、自分の感性を削らないといけないし、役に立つことを書かなきゃいけない、とした結果、伝えたいことの薄い自己啓発本に成り下がったかのような。


そんな批評をしているのは本日、自分の感性をずっと否定して生きていたことに気づいた私である。
批評の中身は、これまでの自分の表現法でもあったし、そればかりか「自分の創造性は社会性に劣る」と感性を批判して無価値と決めつけ、踏みにじってもいた。

そんな、自分の感性による表現をぞんざいに扱っていた私が、立派に世に出ている人さまの表現にもの申す資格なぞ、ない。


結局のところ、するかしないかの差だよ。
それがいい、と自分が思えたなら、それでいい。
評価は後からついてくるもんだ。
これまでの、自分の感性や表現を軽んじる態度に猛省する。


でも、やっぱり自分に嘘はつけなくて、薄っぺらい印象はそのまんま。
人に倣うことなく、自分の感性を信じなきゃダメだ。
そも、買った理由が「感性に正解を求めるため」という時点で、何もかも間違っている。


それがわかっただけでも、買う値打ちはあった。




2日前。
なんてことない19時すぎの駐輪場で空を見て、夏が近づいているな、と思った。


こんな些細なことも、なかったことにはしない。
できるかどうかより、「する」を選ぶ私でありたい。