ゴールデンウィークは、ほぼ内観で終わった。
最終日はさすがに疲れて、ホットケーキミックスでクッキーを焼き、口に頬張りながらゲームで遊ぶ、充実した虚無と化していた。
2回ほど作って、改めて思った。
クッキーは小麦粉に限る。
自分の内側ばかりに目を向けていると、心がパサついてくる。
かといって外で潤いを求めようにも、内側から響く「出せ、出せ」という声がやかましくて気が引ける。
なんなら、「ガマン」が出てきたら肩が押さえつけられているように感じるし、自尊心の欠如から来るようなら腰がアイテテ、となる。
昨夜はなんの拍子か、滞っていたエネルギーが出てきて、発散するために手やら足やらブラブラさせなきゃいけなくて、大変だった。
まな板の鯉だって、もう少しおとなしかろう。
お陰で今日は、たいへん化粧ノリが悪かった。
生存戦略によるコドモの規範は、オトナになってからも健在。
アレもダメ、コレもダメ、ソレをするなら条件つき…と、とにかくルールが多すぎる。
オヤに刷り込まれた、でなければ幼少期にたった数年いただけの、強烈な集団の規範が、自分のすべてを凌駕する。
それでも世界への絶望や、自分に対する失望は、日に日に減ってきた。
今日出てきたのは「したいことだけ、好きなことしかできない」ことへの後ろめたさ。
ここまで来るのに、ノートを6ページほど消費したし、ペン先だって一度交換した。
学校の帰りがけ、バスから電車に乗りつぐ駅の書店で、肩をすぼめ、背中を丸くして本を立ち読みしている十代の自分が浮かんだ。
既にあの頃に生き方を確立していたのに、それを無効化したために、小さく留まることにつながっていた。
何も無効化してまで、人に合わせることはなかったんだ。
アンタはエライ。
それでも自分を信頼することを諦めなかったんだから。
ココロに吹く、小さな風を拾って。
それはビリビリと窓を揺らして、開け放てば帆をはらんだ。
なのに、どうして、なんで、無価値と決めつけていたんだろう。
スキに忠実に、したいことだけで生きること、仕事をもっと愛すことを決めたよ。
そして、童心や幼心を取り戻すことも。
それが私の、表現の原点だった。
お風呂に入る前に鏡を覗いたら、上気した艷やかなカオが見えて、キレイだ、と思ったのも束の間、不意に胸を突くような痛みが出てきた。
取り戻せた安堵感、夢をつぶそうとしていた悔しさ、取り残された悲しみ、そこでは生きられないとしていた寂しさ。
全てがごちゃまぜになって、お風呂で泣いた。
まだ、痛みは消えていない。
生きるための生存戦略とはいえ、そのツケはしっかり払うことになる。
それでも私は生きていけるし、そこにこそ私ならではの豊かさの源泉があった。
足元にいた青い鳥をやっと捕まえたような気分だった。
おかえり、アタシ。
新月タイムの、少し早い贈り物はしかと受け取った。
きっと、明日も届くはず。