個人的な備忘録として。


「存在の無条件性」が皆無だった自分にとって、社会性を失うことは「死」を意味していた。
それこそ「こうあるべき」「こうあらねば」と、何かにつけて理由付けしなければ生きていけないほど、心が切羽詰まっていた。


でも、誰もが等しく存在を肯定されているなら、自分がそうあることを許していないだけでは?

そんな認知の歪みから、ありのままの自分を認めるのには、誰かの承認が必要だと思いこんでいることに気づいた。

どうも誰かに「許す」と言われるまで、許されることはない、としていたらしい。
支配やコントロールを受けたコドモの頃に作られた規範は、オトナになった今もなお健在だった。


だから許しを得なくても自分で選べる、全て自分で決められることを自覚して、許しを請うのをやめた。
もう、なんの言い逃れもできないという心許なさと、何からも逃れなくていいという安堵感の両方が出てきた。


それは、自分が「生まれながらに巫だった」と認めることであり、巫の自分として生きる覚悟を決めることでもある。
とっくのとうに理解はできていたにせよ、「自分が決めたんじゃない」という引け目と、誰かの承認が必要という思いこみから、逃げ道を作ってもいた。

とはいえ、もう充分逃げ回ったから飽き飽きしていたところでもあった。
ここに来て、抵抗する材料もなくしちゃったわけなので、ついに長年の不毛な戦いが終わった。

ここでも「もう言い逃れも言い訳も正当化もできない」という気持ちが沸き起こるけれど、する必要がなくなったとも言える。


解放感より、徒労感でどっと疲れた。
そもそも自分のありようや生き方に、自分でケチつけるもんじゃないな。
それでも、あくまでも自分の納得感が必要だったから、これも流れとして受け入れることにした。


そうすると不思議なもので、必要なことが全て起きていたと思えるし、伏線を回収した気分にもなる。
決断は先であらねばならない、という思い込みからも解放されると、決断が後になることは往々にしてある、とちゃっかり手のひら返しもできた。


巫でも巫女でも巫覡でも意味することは同じだし、どう思われたっていい。
これが私の生きる道。
自らの意志による選択で、レールに乗った。
ま、そういう流れだったんだわ。

…と、思えるようになるまで十数年かかった。


そして、そこを受け入れない限り、この先は進めなかったから、ギリギリ及第点かな…とも思えた。
要するに、住吉三神の後押しを受け取りきった。
神さまの後押しを「受け取りきった」と思えたのは、これが初めてかもしれない。


だからといってなんの問題もなくなったわけでもなく、「さて、これからどうすっかな…」という気分でいるのが正直なところ。

「否定しなくて良くなった」だけで「肯定できる」までには溝がある。
まだ自分自身の価値観を否定する自縄自縛状態からは完全に抜け出せていない。
存在が無条件であると腑に落ちたところで、ダメ出しグセが即座に消えるわけでもない。


…が、あまりに突き詰めると、それこそ「100%カンペキに全て解消せねばならない」という自分への条件付けになりかねないので、今はこれで良しとする。

きっと明日も自分の枷と向き合っている。
それは、巫として生きる覚悟ができたからこそ、出てくる規範なのだろう。

そして、今後もそうして自分に寄り添いながら、丁寧に外していこうと思えることが「ありのままの自分」への信頼の証なんだと思う。



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