巫(かんなぎ) 紗妃です。
「厄」という響きは、それだけで嫌な感じがします。
事故や病気、ひいては天災…
個人レベルから社会レベルまで広い範囲をさしますが、一般的に「厄」と言うとこちらの意味でしょう。
そんな「どうしようもない、突発的な不運」に対して、平穏無事であるようにと、厄除けを願うのは当然のことです。
ただ、ここで取り上げるのは、運気と関係なしに生み出される「厄」のことです。
自分本来の価値観や信念というより、過去の過ちや傷、学習による凝り固まった信念や執着。
そういった意識も、厄の種になりえます。
他の可能性に目を向けることなく、何を成すにも条件をつけたままの状態は厄の育つ苗床となって、強固に根付きます。
その状態に見直しをかけない限り、やがては個人の機運にも影響を及ぼします。
ただし、そうなったのには相応の理由があるはずです。
傷ついたなら、傷つかない方法を学んだでしょう。
過失を悔やんだなら、二度と起こさないようにと戒めたでしょう。
成長過程で、与えられて然るべきものを与えられなかった場合もあるでしょう。
当然、人として持つ防衛本能も働いたはずです。
いずれにせよ、歪んでいようと誤っていようと、その信念や認識を持つのに至った理由は、誰かや自分を傷つけるためではないのです。
それを踏まえれば、自分の内側にあるものが、全て自分のせいであり、非難されるべきだとは思いません。
傷ついたままの自分で、止まった時間を抱えて生きるという選択もまた、尊重されるべきです。
ただ、そういう状態でいるという選択は「今の自分」が引き受けているものであり、癒える傷があることも、時間を動かして変化を呼び込めることもまた、揺るぎない事実です。
過去を過去として見つめ、起きたことに対する反応や自分を見つめ直しながら、内面を穏やかにクリアにして枷を外せるのは、自分自身に他なりません。
過去の過ちを悔やみ、自分を罰するために生きるのではない。
不満を飲み込み、過度な期待を寄せることでもない。
過ちから律することを学び、自立した自分で幸運を掴むことだ。
先日、龍神さんからさらっと言われて、胸に刺さりました。
誤った信念や認識が愛から来たものなら、その矛先や注ぎ先を変化させれば、正すことができるはずです。
自分を見つめ直しながら、信念や価値を転換させて、健全に真っ当なエネルギーをまずは自分に注ぐことで、厄は断ち切れます。
不幸な連鎖を生み出さない土台は、「私が私で生きられる」ことを肯定します。
自分を罰するためではなく、自立した自分で幸運を掴んで生きる道は、そんな自分から出る愛を人に渡していく営みに繋がります。
内側の厄除けとは、愛を注ぐ先や注ぎ方を変えることでもあるのです。
厄除け効果もある龍神の神さまメッセージは
準備ができ次第、ご案内します。

