雲井の仙人ー思いつ記ー -2ページ目

雲井の仙人ー思いつ記ー

ブログの説明を入力します。

GW1日、田舎にて友達からピザ釜を造ったのでピザを作って食べようとお誘いがあり、行って見ると立派な釜が出来ており、楽しみながら色々とトッピングしてご馳走になる。

その友は私と同い年だが4年前にも炭焼きに感心を持ち先輩から指導を受け、家の近くに炭焼き釜を造り、今まで炭作りに45回挑戦しているが、こればかりは毎度、出来具合が違い、なかなか思う様には焼けないようだ。45割が炭になれば良く、あとは灰になるとの事、厚木を切り出し釜に詰め、火を入れ、23日、煙の具合を見て大変な作業だが、今回も炭焼き釜には焚口を開けてない状態で焼いており、いかにも開けるのを楽しみにしている様子だ。

そんなわけで、ピザ釜造りはお手の物、私も教わりながら田舎にピザ釜造りを挑戦しようと思う。写真は出来上がったピザ。ほんとうにおいしい!、楽しく遊べる。
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418日鯵が釣れだしたとの事で、前回の正式には柳井港の沖の波戸に渡りサビキ釣りです。

あまり喰いは活発ではなく、それでもねばってアジ7匹(前回よりやや大きく30cm前後)、メバル3匹(手のひら大)、サヨリ10匹(25cm)

タナゴは20匹位釣れたが余り人気がないためにリリース。

友達は釣り方を変え撒きえによる、メバル、グレ狙いでそこそこの釣果です。

(写真のグレはその内のひとつ)。潮が引いた時に友達が、玉網の竿の先に釜をつけてワカメを採ってくれました。多少遅い感はあるがボイルして酢味噌で食べるとうまい事、また茎や根の部分も別に調理します。釣りの現場をカメラに撮ろうと持参したけど、撮るのも忘れてしまった。


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さくら満開のウォーキングコース

我が家から1500mの坂道を登って行くと、菰口(こもぐち)の森という公園があり、ここで花見を楽しむ方達もいます。

標高差もあり平和公園辺りより34日開花は遅いのでしょう。そこから約1kmなだらかなな道を下ると延命地蔵という、こんもりとした社

があり、そこに地下600mから湧き出る水が延命水といっておいしいのです。毎度リュックにペットボトルを3本分入れて帰ります。

往復1時間半のウォーキングコース。
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田舎で春野菜作りの畑準備のため行ってきました。最初は鍬で草を削ってましたが、少しでばててしまい結局、苦土石灰と石灰窒素を撒いて草と

一緒にミニ耕運機で耕し、畝を作り溝の方(以前、山に植え付け笑われた)にジャガイモ(メークイン)を植え付けて終了。

次回は里芋と生姜を植える予定。夜は友達がワサビ漬け、ワサビの粕漬け、板ワカメ、蕗の蕩味噌を持参してくれ一杯。当分春の珍味が味わえそうだ。  我が家の近く傾斜地にタラの木があり芽が出てます。日に日に大きくなり、明日は採って天ぷらにするか!。こうして今からは、ワラビ、蕗、タケノコと忙しくなります。
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金剛峯寺の庭園(墨絵)    タラの芽        

昨年四国八十八ヶ所の遍路は結願しましたが、最後に弘法大師が開いた、高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)に、納経をして満願となる。

と言うことで高野山にお参りして来ました。標高800mの平坦地に、100ヶ寺以上の寺院が密集する、まさに「聖地」。 「一山(いっさん)境内地」と称し高野山全体がお寺なのです。

あたりはまだ雪が残っており、全域が大きな杉木立に囲まれ荘厳な宗教都市。


316日 715分発の新幹線==新大阪854分着==バス1220分高野山宿坊着

精進料理の昼食
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金剛峯寺(こんごうぶじ)

真言宗総本山 金剛峯寺の境内は広大さと優美さを有しており、主殿をはじめ奥殿や茶室にいたる色々な建物を備え、国宝級の襖絵や、石庭などが設けられ、お寺とは言え、高野山全体を管理する壮大な社務所の役を司るお寺だろう。

豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巖寺興山寺 を合併し、金剛峯寺と改称した。青巖寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために建立したもので、豊臣秀次自刃 した場所としても知られている。金剛峯寺の主殿は江戸末期文久 3年(1863年 )に再建された、東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。


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高野山奥の院

寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定(にゅうじょう)の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。

奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われる。奥の院には上杉謙信景勝 霊屋(たまや)、松平秀康 及び同母霊屋、佐竹義重 霊屋など、建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛熊谷蓮生房織田信長明智光秀曾我兄弟赤穂四十七士法然親鸞初代 市川團十郎 、俳優の鶴田浩二 など古今の様々な人物の墓碑や供養塔がある。また芭蕉高浜虚子 の句碑もある

奥の院に向かう途中(写真右)僧侶姿の、家田荘子さんにすれちがい会釈される。
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慈尊院(じそんいん)
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国 多度郡 (現:香川県 善通寺市 )から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩 を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道 )を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。

空海の母は承和 2年(835年 )2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。

本堂にて20分法話を聞く。
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椎茸栽培雲井の仙人ー思いつ記ー

ご近所さんに誘われて、椎茸を栽培してみようという事になり、1月末に許可をもらった雑木林のクヌギの木を1mの長さで60本(大小さまざま)位、チェンソーでほだ木を造り、20日余り寝かせて置き、2月18日、ドリルで穴を開け

(写真)椎茸菌を植え付けました。

しばらくは積み重ねておき、5月頃、反転するということです。菌の植え付け後に雨も降り、今のところ順調で、来年の秋にはどうかな? 

ふた夏過ぎたら生えてくるとの事だから、2年先に生るかも。場所はその雑木林の日陰の所に置きます。




快晴、4、.5前の寒波はどこへいったのでしょう、

晴天に推され、近くの山道をウォーキングに、歩数約8000歩、時間にして約1時間半の行程。30分も坂道を上がるとなんと、うぐいすの鳴き声が!

ラジオのイヤホンをはずし、歩きながら聴きました。谷の奥から上手に鳴いています。一説には春になると谷の奥から出てくることから、ウクが「奥」、ヒス(イス)が 「出づ」で「奥出づ」の意味とする説もあるらしく、まちがいなく春もすぐそこに!

すれちがう人とも「春ですね…」と挨拶です。(やや早いかな)

昨年は3月10日に家の近くで聴いてます。もうすぐ、うぐいすの鳴き声で目覚ましの代わりをしてくれる朝が来るでしょう。

先日の「あじ釣り」のブログに誇大表現があると、雲井の仙人ー思いつ記ー

身内からクレームがあり一部訂正します。

あじのサイズは大きくて28cm、25~28cm。

鯖はやはり30cm前後。数はほぼ間違いなし。

お陰で、冷凍庫を購入し保存することにしました。

鯖は正直、塩にして焼いてみたが、あまり油がのってないのか美味しくありません。調理方を工夫してみよう。

今後は釣った魚に、春の山菜と冷凍保存が沢山出来るので忙しいことです。

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1月8日、友達3人で山口県の大畠漁港の湾内

の波止に渡し船で渡り、あじ釣りに行ってきました。

広島インターを朝6時発、現場に7時過ぎ着。

前日から準備したアミ海老でサビキ釣りです。

海水温度が下がったためか、喰いはやや鈍いが

それでも30cm前後が20~30匹、鯖がやはり40cm前後が30匹、他にタナゴ、メバルと釣れ、

7時間があっ、という間。午後2時30分納竿。

あじの刺身での一杯は、うまいこと。

久しぶりの釣りに大満足!またひとつ釣りに火がついた様だ。



いよいよ結願にあと三ヶ寺


86番札所 「志度寺」(しどじ)

志度寺の歴史は古い。平安時代末期には観音霊場として名をはせ、「平安物語」

などにも登場。仁王門には仏師運慶作といわれる大きな金剛力士像が力強く立っている。境内の片隅には海女の墓があり、志度寺に伝わる伝説の海女。もう一人の主人公は奈良時代の公卿、藤原不比等(ふひと)。 不比等は亡き父鎌足を供養しようと、奈良に興福寺を建立するが、唐から贈られた宝珠をここ志度の沖で竜神に奪われてしまう。宝珠を取り戻そうと志度を訪れた不比等は

この地で海女と恋におち、房前という男子が誕生する。海女は宝珠を取り戻すが命を落としてしまう。愛する海女の死を悲しんだ不比等は、彼女の墓と堂を建立して「死度道場」と名付けた。後年、成長した房前は行基とともに母の供養で寺を拡張し、「志度寺」と改名する。ちなみに宝珠は奈良興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納められているという。

               納め札

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右上 錦札…100回以上遍路の方の使用

   金札…50回以上

   銀札…25回以上

   赤札…8回以上

   青札…5回以上

   白札…1回~4回のお遍路の方使用。

本堂、大師堂にそれぞれ1枚おさめます。

最初のツアー同行者(先達)に頂いた実物。

名刺替わりに使います。


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87番札所 「長尾寺」(ながおじ)

長尾の市街地を歩いていくと、仁王門が見えてくる。仁王門の前には左右に一対の「経憧」と呼ばれる石柱があり、それぞれに経文が刻まれてあり、これは13世紀後半、蒙古の日本襲来を迎え撃って犠牲となった讃岐の軍人を慰霊するために建てられたものという。

この長尾寺にも源義経の愛妾静御前の伝説が。

鎌倉で源頼朝によって愛児を海に流されてしまった静御前は諸国をさまよって讃岐のこの寺に着いた。そして義経の死を知り悲しみにくれ、得度を決意。その時の剃髪した髪を埋めたといわれているのが、本堂の左手前にある静御前剃髪塚。静御前は長尾寺の近くに庵を構え、余生をすごしたといわれている。

                       

雲井の仙人ー思いつ記ー 88番札所 「大窪寺」(おおくぼ)

  

標高787mの矢筈山(やはず)の中腹に建つ大窪寺。

87番長尾寺から約17km、歩きで4時間、車で35分、みやげもの店や食堂などが並ぶ門前町。石段の上がり口に「八十八番結願所」と刻まれた石柱、八十八ヶ所巡りを締めくくる「結願の寺」にいよいよ到着だ。

天気にも恵まれ、山深い緑に抱かれて落ち着いたたたずまいを見せる境内は、結願の寺にふさわしい晴れやかな雰囲気に満ちている。

兵火や火災に見舞われ、山門以外の伽藍を焼失、現在の建物はほとんどがその後の再建。本堂には度重なる火災からまぬがれた本尊の薬師如来が秘仏として安置されている。また弘法大師が納めたと伝わる錫杖もあるが拝観はできない。大師堂の右側二ガラス張りの宝杖堂。長かった巡礼の旅を終え、結願したお遍路さんたちが金剛杖を奉納するところだ。

ここで昼食に山門近くのうどん屋さんへ入ると、遍路姿の細身の初老の人が

休憩されている、話を聞いて見ると、75歳で新潟から来たとの事。この度で7回目の結願で「困ったことに四国病になった。おもしろうて、楽しゅうて、帰ったら又来とうなる。」と話される。そんなものか、判らないでもでもない。


1番札所 「霊山寺」(りょうぜんじ)

88番札所を巡拝して結願し、1番札所「霊山寺」にお礼参りに帰って満願となる。

思えば今年1月徳島県「発心の道場」23ヶ寺、高知県「修行の道場」16ヶ寺、愛媛県「菩提の道場」26ヶ寺、香川県「涅槃の道場」23ヶ寺と八十八ヶ所を巡り、いろいろと体験し、人に出会い、いろんな光景を拝見し、感心感動し、ある一定の達成感はあるが、正直なところ自分を見つめなおすとか、当然そういう境地の変化にはいたっていない。やはりそんなものを求めたいが為に歩いて修行したり、もう一度もう一度と遍路を重ねていきたくなるのでしょう。つぎ来年は単独で車で巡ってみたい。