東京書籍の何が問題か4(補)戦前の国史教科書は、維新前史をいかに記述しているか | 折本たつのり千葉県政報告(浦安市)

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ここで参考までに戦前の国定教科書ではこの維新前史についてどういった記述がなされているか、以下に昭和14年文部省発行の国定教科書『高等小学国史』を元に、「尊王論と国学の勃興」と題する小節を全文引用します。
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以下引用///

尊王論と国学の勃興

太平が久しくつゞいて学問がおひおひ進んで来ると、国史・国文の研究が起こり、武家政治のわが国体にそむくことをさとつて、尊王をとなえるものがあらはれるやうになつた。

そもそもわが大日本帝国は、万世一系の天皇が、大政を御みづからみそなわしたまふのが大法である。しかるに、平安時代の中頃から、藤原氏が権力をほしいまゝにして政治をみだり、遂には、武将が国政を執るような変態が出来た。けれども、幕府の政治は、源頼朝がはじめてから、すでに久しい間にわたつてをり、その根底は極めて堅く、将軍は非常な権力をもつて天下に臨んだ。国民もまた、いつとなくこれになれて、少しも疑をもたないばかりか、中には、たゞ将軍のあるのを知つて、皇室の尊厳にましますわけを知らないものが少なくなかつた。

江戸幕府は、家康以来、たびたび皇居や山稜を御修理申しあげ、またすたれた朝廷の御儀式を興したり、新に宮家をお立てしたり、御料を豊かに増したてまつつたりしたが、政治上の実権だけは、いつさい自分で握つてゐた。関原の戦の後、京都所司代を置いて、京都を守護すると共に、関西地方をおさへさせ、大阪の役の後、公家諸法度を作つて、天皇の御学問に関することをはじめとして、皇族・公卿に対する種々の規定を設け、これによつて朝廷の御事に干渉したてまつることが少くなかつた。また藤原氏の例にならひ、皇室の外戚となつて幕府の基を固めようとし、秀忠の女東福門院を第百八代後水尾天皇の中宮として宮中に入れたてまつつた。さうして、程なく、中宮の御腹の皇女で、御位にお即きになつたのが、明正天皇であらせられ、奈良時代から久しく絶えてゐた女帝の例がまた開かれた。第百十代後光明天皇は、幕府をおさへて大いに皇威を張らうとなさつたが、せつかくの御志もまだ果したまはぬうちに、御葬礼でおかくれになつたから、幕府は、もはや少しも憚るところがなくなつた。

水戸の藩主徳川光圀は、尊王の志が深く、四方から学者を集めて、江戸の別邸に史局を開き、大日本史を編纂して、大義名分を明らかにし、山崎闇斎も京都にあつて尊王の大義を説き、神道をとなへて、盛に弟子を養成した。これから、国民は、わが国体の尊いわけをさとつて、幕府の朝廷に対したてまつるわがまゝな振舞を憤るものが、おひおひにあらはれて来た。闇斎の学説を奉ずるものに、竹内式部・山縣大弐などがあつた。式部は、越後の人で第百十六代桃園天皇の御代に、公卿の間に出入し、大いに武家政治の非を論じて、王政の古にかへらればならぬことをとなへ、遂には、その説が天聴にまで達したが、やがて、幕府にいまれて追放せられた。大弐は、甲斐の人で、日頃、皇室の衰へさせられたのをたいそうなげき、江戸にあつて、きびしく幕府を攻撃したから、遂に幕府の為に斬られた。

かやうに、真先に尊王の大義をとなへ、幕府の不義を論じたものは、忽ち罪せられたが、尊王の思想は、たいていおさへきれるものでなく、かへつて国学の興るにつれて、ますますひろまつていつた。さきに、光圀が国史の研究をはじめた頃、大阪に僧契沖があつた。博学で、わが古語にくはしく、光圀のたのみで万葉集の註釈をあらはした。これから国学の研究がしだいに盛になり、寛政の頃、伊勢の本居宣長によつて大成せられた。宣長は、賀茂真淵の門人で、深く古史・古文を研究し古事記伝をはじめ、数多の書物をあらはして、国体を明らかにすることにつとめた。その学を受けたものは、全国にわたつてすこぶる多かつたが、中でも、平田篤胤は、最も名高く、儒・仏をしりぞけて神道をとなへ、盛に尊王愛国の精神を鼓吹した。かつて、
人はよしからにつくとも我が杖はやまと島根にたてんとぞ思ふ。
とよんで、その堅い信念を示したのであつた。また宣長と同じ時代に塙保己一があつた。盲人ながらも博聞強記で幕府の保護を受けて江戸に和学講談所を設け、広く古書を集めて群書類従一千八百冊余りを出版した。それで国学研究の便宜が開けていつた。

かうして、古史・古文の研究がいよいよ盛になつたから、世人はますますわが国体の尊厳であることを知り、大義名分をゆるがせにしてはならぬことをさとるやうになり、尊王家がつぎつぎにあらはれた。寛政の頃、高山彦九郎・蒲生君平の二人は、皇威が久しく衰へさせられたのをなげいて、あまねく諸国を廻つて熱心に尊王の論をとなえた。ついで、頼山陽が出て、二十年余りの間苦心を重ねて日本外史をあらはし、武家興亡の歴史を説いて、政権が武家に移つた由来を論じ、また晩年には病苦に悩みながらも、これをしのんで日本政記を作り、順逆の別を明らかにして尊王の精神を鼓吹した。これらの書物は、いづれも痛快な文章で綴られて、広く世人に愛読せられたから、国史の知識を普及すると共に、人心に非常な感動を与えた。後に王政復古が成就したのは、実にこれらの人々の苦心に基づくところが多かつたのである。