偶然出会った会社のトップ営業マン黒川と一緒に、これまた偶然に営業に行くことになった佐久間耕介。売れない新人営業マンにとってこれほどありがたいことはない。

 しかし耕介は内心うかない気持ちだった。営業という仕事に対してそれほど興味がないというか、むしろやめたいと思っていたのに、いまさら勉強するなんて気分になれないのが本音だったからだ。

 そんな耕介の気持ちも知らずに黒川はクライアントの会社に向かっていった。

 

 

「今日は午前中に3件アポが入っているから、急いでまわるよ」

 そう言って黒川は、さっそく一件目の会社に入っていく。

 さっきの喫茶店から歩いて5分程度の場所だ。こんな近くにお客さんがいるなんてうらやましいと耕介は思った。自分がアポイントを取れる会社は決まって駅から遠くて、行って帰るだけで半日以上かかってしまうこともあったからだ。

 受付の人に来社を告げると、そのまま応接室に通された。

 後ろからついていく耕介はもう緊張し始めている。なんせ会社を訪問してもいつも門前払いで、まともに応接室などで商談したことなどなかったからだ。

 案内された部屋は、奥に3人掛けの黒いソファーがあり、テーブルを挟んで一人掛け用のイスがふたつ置かれていた。典型的な応接セットだ。

 黒川は迷いなく奥のソファーに座り、隣に座るように耕介に目くばせした。

 耕介は黙って従った。

 ところで、黒川は本当にしゃべらない。この会社に来る道中もほとんど話をせずに黙々と歩いていた。根っからの無口なのか、それとも緊張しているのか。その無表情な顔からは想像もできない。

 そこへ先方の担当者が入ってきた。

 黒川はスッと立ち上がりあいさつをした。耕介も遅れて立って頭を下げた。

 そしてお互いに名刺交換。

「ストロング広告の黒川です」

 そう言って自分の名刺を渡してから黒川は急に固まってしまった。

 相手の名刺をじっと見つめて考え込んでいる。どうしたんだろう、名刺交換で緊張してしまったのだろうか。

 耕介がとなりでハラハラしていると、

「これは、田中……何とお読みするのですか?」

 黒川はとんでもないことをさらりと言った。

 相手の下の名前が読めなかったらしく、それをいきなり質問しているのだ。いくらなんでも相手に失礼だろう。それに漢字が読めないことを白状しているみたいで、印象も悪くなる。本当にこの人はトップ営業マンなのだろうか?

「ああ、これは〇〇と読むんですよ」

「え、これで〇〇と読むんですか、珍しいですね~」

「はい、いままでちゃんと読めた人はいませんよ(笑)」

「そうでしょうねえ、この字はなかなか使いませんからね(笑)」

 あれ? お客さまがいきなり笑顔で話している。初対面の人は例外なく怒ったような顔をして、面倒くさそうに応対するのが通常なのになあ。このお客さまは今日は機嫌がいいのかも。これならこちらの話もすんなり聞いてくれそうだぞ。

 と思っていると、黒川はまた変なことを言いだした。

「ところで、今日こちらにうかがう途中で気になったのですが……」

「なんでしょう?」

「商店街からこちらに向かう通り沿いに、こじんまりとしたラーメン屋さんがあったのですが、朝から人が行列をつくっていてちょっと驚きました」

「ああ、△△亭ですね」

「ご存知ですか! おいしい店なんですか?」

 おいおい、せっかく相手が話を聞いてくれそうなのに、どうでもいいラーメン屋の話なんか持ち出して、何を考えているんだ、この黒川という人は。

「この辺じゃわりと有名ですよ。私も好きでときどき並んでいます(笑)」

「そうなんですか、おススメは何ですか?」

「私はいつもスタンダードなしょう油味ですが、味噌味もいけますよ」

「しょう油と味噌ですね。ありがとうございます。私、ラーメンには目がないもので」

 あらあら、仕事そっちのけでラーメンの話に夢中になっちゃっているよ、この人たち。

 

 そうしてしばらく雑談が続くのを、耕介はとなりでぼんやり聞いていた。

 すると、お客さまが思い出したように、

「ところで、おたくは求人広告も扱ってるの?」

「はい、扱っています」と黒川。

「いまちょうど社内で人材採用を検討しているところなんだけど」

 こんなおいしい展開なんてアリなの!? お客さまのほうから相談を持ちかけてくるなんて信じられない。普通なら、聞きたくなさそうにしている相手に、半ば強引に商品説明をしないと営業にならないのに。

 それからあっという間に商談が決まった。今日最初に訪問した会社から、求人広告の注文をもらったのだ。

 ただ、これははっきり言ってラッキーである。そもそも相手にニーズがあって、そこにタイミングよく出かけて行ったから決まったようなものだから。こんなことがそうそうあるわけがない。

 

「良かったよ。商談が決まるところが見せられて」

 申込書にハンコをもらってその会社を出てから、黒川は耕介に話しかけた。

「そうですね。おめでとうございます。ラッキーでしたね」

「ラッキー?」

「だって、あのお客さまはもう広告を出すことを決めていたようでしたから」

「あ、ああ、そうだね。そういう意味ではラッキーかもね」

「それに、黒川さんがほとんど商品説明をしていないのに決まっちゃうなんて、あんなこともあるんですね~」

 事実だった。商談中もほとんどお客さまがしゃべっていて、黒川はうなずいたり、質問に答えたりするだけだった。

「ははは、説明しなくても売れるときは売れるもんだよ」

「そういうものなんですか」

 ところが、そのラッキーは1件目だけではなかった。

 次の会社でも、その次の会社でも、同じようなパターンで広告が売れたのだ。

 その日午前中のアポイント3件からすべて注文をもらったことになる。これは奇跡だ!

 相変わらず無意味な雑談から始まって、いつの間にかお客さまのほうから仕事の話をし始める。そして気が付いたときにはもう申込書にハンコをもらっているのである。

 すごい、すごすぎる。自分がどんなに必死になって駆けずり回っても、半日で3件の注文なんて取れるわけがない。いや1件ですらムリだ。

 耕介は、前を歩く黒川の背中をまじまじと見つめた。なんでこの人はあんなことができるんだろう?

 

つづく