「佐久間君」
飛び上がるくらいびっくりした。こんなところに知っている人がいるわけがないと思っていたので、油断していた。
恐る恐る声の主を探していると、すぐ近くの席に座っている見知らぬ男がこちらを見ている。この人が自分を呼んだのか? でも会ったこともないし、人違いかもしれない。
「佐久間君、ですよね?」
するとその人の口から再び自分の名前が出てきた。こっちを向いてるし、明らかに自分に対して声をかけている。
「そうですけど」
気味が悪いが、呼びかけを無視することもできないので、小さな声で返事をした。
「ああ、よかった。一瞬間違えたかと思った。私は君と同じ会社の黒川というものです」
えっ、会社の人! やばいなあ、サボっていると思われる。これが牛島課長にばれたら最悪だ~。……ん、でもまてよ。黒川って名前は知ってるぞ。いつも営業成績がダントツトップの人も同じ名前だ。
「えっ、黒川さんって、まさか営業の!?」
黒川という名前の社員は他には知らない。だけど、この人がトップ営業だとはとても思えなかった。なぜかというと、自分と同じようなニオイを感じるからだ。静かな喫茶店にひとりでいるのが好きなタイプ。大勢での宴会やお祭り騒ぎが苦手な性格。この黒川と名乗る男からは、そんな内気なオーラが出ていた。
超体育会系の営業会社であるストロング広告社のトップ営業マンというからには、やはり大柄で声が大きくて押しが強くて酒も強い! そんなイメージしかなかった。目の前の黒川は正反対の人だった。小柄でかなりやせている。声も穏やかでどちらかというと弱弱しい印象だ。
「そうです。営業の黒川です」
「あの、トップ営業の!?」
「まあ一応そうですね」
黒川はちょっと照れくさそうに答えた。耕介が信じられないという風にボーっとしていると、
「ひとり? よかったら、ここに来ない?」
と自分のテーブルの前の空いている席を指さした。
「はい」
言われるままに耕介は座った。
黒川は通りかかったウエイターを呼んで、飲み物を注文するように耕介に促した。
ホットコーヒーを注文した。
そして、耕介がメニューを所定の位置に戻すのを見て、黒川は切り出した。
「じつは、君のことは前から気になっていたんだ」
「えっ」
「よく牛島課長に怒られてるよね」
「はい、まあ」(いきなりイヤなこと聞いてくるなあ)
「やっぱり。あの人は君みたいなタイプをみると目の敵にするからなあ」
「……」(なんと答えていいのかわからないので、黙っている)
「僕も昔はよく怒られていたからわかるんだ」
「え、黒川さんも!」
「そう、僕も目の敵にされるタイプだからね、君と同じように」
「そうだったんですか!」
「うん、入社当時は何度も会社を辞めようと思ったけど、売れるようになってからは何も言われなくなったんだ」
耕介は、黒川の会社を辞めるというセリフに少し反応した。
「で、君も同じことを考えるんじゃないかと思って心配していたんだ」
ドキッとした。図星だった。それに対してどう答えていいのかわからずに黙っていると、次の黒川のセリフに耳を疑った。
「そうなったらもったいないなと思ってね。だって君は営業に向いているんだから」
「そんな、まさか……」
「まさかと思うのもムリはないけど、いまだからわかるんだ。君は間違いなく営業に向いているよ」
小さい声だが確かな自信を感じられる黒川の態度に、その言葉がウソやごまかしではないことはわかった。でも信じられない気持ちに変わりはない。
「ですが、実際にはまったく売れていないですし、牛島課長からはいつもおまえは営業に向いてないと言われてます」
「まあ、あの人ならそう言うだろうね。でも課長が言うからそうだと言い切れる?」
「それは……」
「課長の言うことと、僕が言うこととどっちが信じられる?」
「え~と、そう言われましても……」
どう答えていいのか悩んでしまう。こういう状況になると耕介はいつも軽いパニックになってしまい、全身が火照ってくる。すぐに緊張してあがってしまう性質なのだ。
一方で黒川はこのやりとりを楽しんでいるように、余裕の表情をしている。
そして耕介が答えに困っていると、
「ごめん、ごめん。いじわるな質問だったね。でもそんな質問にも真剣に答えようとしているところが、君の良いところなんだよ」
なんだかはぐらかされている感じだ。
ただ、黒川の表情を見ていると、自分をからかおうとしているとは思えなかった。むしろ好意的に接してくれているように思えた。
その証拠に、こうして二人でいることに、いつもなら感じる切迫感がなく、しばらく黙っていてもなぜか落ち着いていられた。
「ところで提案があるんだけど」
コーヒーをゆっくりと飲んで、静かにカップを置いてから黒川はこう切り出した。
「なんでしょう」
「今日、これから僕と一緒に営業に行かないか?」
「は?」
いきなり何を言い出すんだろう、この人は。
「もちろん、予定があるならしかたないけど」
「いえ、とくに予定は……」
「そう、じゃあ決まりだ」
そういうと、黒川は伝票を持ってさっさとレジに向かった。
耕介もあわてて残りのコーヒーを飲みほしてから追いかけた。
物静かそうに見えて、行動するとなると素早い人だなと思った。
外に出ると、初夏の日差しがまぶしかった。
そして、このあと、耕介の人生が大きく変わる体験をすることになる。
ポイント)営業に向いている人は、必ずしも体育会系ではない
つづく