第二十章 アトランティアンからの警告(2)

 

 霊界と地上の肉体界との違いはなによりもまず原像とその写し、ないしは実相(じっそう)仮象(かしょう)の違いにある。そのことを心得ていさえすれば、つねに本当の世界は向こうにあるのだということを忘れずにいることができる。そうなれば、ここで起きていることにとらわれなくてすむはずなのだが、どうしても肉体にはいって地上で生活していると、つぎつぎと起きてくる現象にとらわれがちなのは白樹も澪も例外ではなかった。
 

 

 かつて地球と太陽、そして地球と月はひとつでした。太陽が地球から分離し、月も地球から離れてゆくと、それらに居所を移した高次の霊的存在からの働きかけが地球に住む人類の魂にたいしておこなわれることになりました。それは人間を宇宙と調和させ、宇宙の認識の鏡とし、宇宙の模像としようというものでした。ところが、おなじく月にあって、これらの作用とは異なる作用をおよぼそうとする者たちがいました。すなわちルツィフェルと呼ぶ霊的存在たちです。かつて人類が地球で発達する以前の月のステージにおいて、人間に自由意志をあたえることでその意識進化に寄与してもいるのですが、彼らは月の性質を保ちつつその段階に留まりつづけ、独自の進化過程をたどろうとしました。彼らは人類が月のステージではまだ学びえなかった自我というものを進化させる道を選ばず、可能性を放棄しました。これにたいし、人類は地球のステージでそれまでの肉体、エーテル体、アストラル体に加えさらに自我を受け、それを発達させるチャンスをあたえられました。自我がアストラル体をはじめ他のすべての体の主人となり、それぞれの体とそれ自身の純化と霊化を進めて地球を愛の星とする使命の(もと)に。その結果、皮肉なことにルツィフェルは地球と人類の進化の(さまた)げをする側にまわり、人類の意識進化と地球の次元上昇を助ける指導霊的グループと敵対することとなったのです。とくに人の感情体つまりアストラル体に働きかけて魂そのものに悪の衝動を植えつけ、誤謬(ごびゅう)に導く誘惑的な力を放ちました。あまり高くはない意識の発達段階に留まる人々は、保護なくして影響にさらされるまま、そうした衝動と誘惑に抗しきれず、…… (抜粋はここまで)

 

 

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2013年1月5日 大浜海岸にて 筆者撮影

 

 

 前回はこの社会で「真実を言う」ことを恐れて口を閉ざし、言いたいことも控え、発すべき語を呑み込む人々ばかりになってきたのは、なぜかという問いを提示したところで終りました。しかし、そういう人々でも子どもの頃は、はきはきと物を言い、間違ったことを間違っていると主張し、おとなの嘘とかごまかしや不正を見抜いて、悪にたいしても「赦せん!成敗してくれる!」と、怒りや義憤を表現し、正義感に燃えていた人が少なくないとおもいます。

 

 

 それが長じるに従い、ボス的存在が中心の座にいて、取り巻き連中が彼を支えることにより、ますますその中心の存在が強力さを増すといった構造が集団の力学として支配しているために力ではかなわぬことを知って要領よく立ち回るようになっていったのではないでしょうか。

 そしていよいよ社会に出ると、まっとうなことを語り、正論をぶつけ、真情を訴えても通らないのだ、ということを痛感する。ここに至って、挫折感や敗北感の苦さを味わい、悲しく惨めな体験を経て、正義や理想に燃えるほど叩かれ、いじめられ、冷たい仕打ちを受け、さんざん辛酸をなめさせられて、ついにあきらめと諦観に帰着します。

 

 

 そうすると、「どうせ言ったって無駄」「~したって徒労に終り、損するだけ」と考えるようになり、いつしか悲観論者とか、大勢順応主義者といった特徴をもつ一個のパーソナリティーが固まってくる。そして、「自分はこんな人間」と、固定的な自己イメージが形成されるとともに、「世の中ってこんなもの」と、これまた固定的な世間(社会)のイメージが形成されることになったのではないでしょうか。これはおそらく日本人特有ともいえる、第6チャクラと連動した第3チャクラの問題とも関係しているのではないかとおもいます。(以下のアーカイブ記事をご参照ください)

 

◆参考記事
 

 

 

 

 

 けれども、よく観てみてください。その見え方は絶対に変らないものですか。永遠不変の真理ですか。と、自分に問いかけると、「いや、変らない。絶対に」と、断言できる人は、「信ずる」ステージ、レベルにとどまりつづけている、いや、しがみついていることがわかります。言うまでもなくエネルギーとして観るなら、ネトッとした粘着質のエネルギーです。わかりやすい例を用いれば、「既得権益」にへばりつく、固執や執着のエネルギー、手放すこと失うことへの恐れのエネルギーです。

 

 

 ある意味これはサバイバルの恐怖(どうやったら生き残れるのか常に手段を講じる)が姿かたちを変えたものでもあるのですが、こうなるともう安定を維持するには、「何かを新たに知る」ということは重要でなく、むしろ危険ですらあり、逆に安全を保障してくれるのは、信念体系ともいうべき信じ込みのシステムを外部からのショックにより損なわないよう、防御しつつこれを固守し、墨守せんとする欲求、欲望にまで太り行き、外部の、安定を脅かす要因となるものにたいしては、敵意を剥きだすようになってゆきます。

 

 

 ましてや、自分自身の拠って立つ見方や考え方、信念の基盤は、現実に照らしてどうなのか、といった観察や自己検証などはどうでもよくなり、硬直化した信念システムと自分とを同化して、そこに変に頑ななアイデンティティさえ持たせて生きてゆかなくてはならなくなるのではないでしょうか。これがいかに不自然で、反自然なことか。とかく人は自分の見たいものや都合のいいものだけを見てしまう、信念にそった現実のみを引き寄せることになりがちですね。そして、それらの現実によってまた自分の信念を強化してゆくというループが出来上がります。

 

 

 一方、ここで「そうじゃないかもしれないな……」と、気づける人はまだ信念に凝り固まる前の柔軟な精神の段階で、変化や多面性というものに目覚めていて、経験と共に新たな気づきを得、古い自己像をつぎつぎと更新し、固定観念を破壊し、信念との同一化より、「理解」し、「知る」ことに努めることに喜びを感じられる可能性のある人です。

 

 前者と後者。では、今の決して明るいとはいえない、むしろ暗く重苦しい、そして閉塞的で冷ややかな空気に覆われた世の中で支配的な力とは、どちらでしょう? 

 

Jasmine Myra - Rising (Official Video)Gondwana Records

 

 

 答えは、前者。つまり、「世の中変らない」、いや「もっと悪くなる」と、信じて疑わない人々、です。当然、血液の比喩で表すなら、サラサラじゃなくて、ドロドロのほうですね。

 

 

 ところで、ここで質問です。肉体の性差にかかわらず、誰の中にもある女性性と男性性。以上に述べてきたような「信念」とは、いずれに属するでしょうか。

 

 

 答えは、男性性です。休息とか受容を女性性、女性エネルギーの本質とするなら、活動や創造、能動的働きかけ、GOのエネルギーが、男性性です。そして知識、イデオロギー、観念などは、男性性に属します。(何度もいうように、肉体的な性差とは関係ありません)

 

 先述の「信念」は、「知る」というよりも、隠れた願望や欲望、恐れや不安をぬぐい去ってくれる予言、人の意見、イメージ、キーワード、カテゴリー、レッテル貼り、スローガン、ファンタジーなどをしっかりと握りしめ、外部の脅威から守ってくれる殻や牙城(がじょう)にたてこもる系の「信じる」が強いです。ただし、同じ男性性でも、別種の信念があります。

 

 

 「今の現実が気に入らず、嫌であれば、新たな現実を築きあげてゆけばよい。そのためにはどうすればよいかを知っている」と言うことができ、しかも「それは可能だと信じる」と、自信と確信をもって断言できる場合の「信念」があるとすると、それは、絶望感や無力感に取り憑かれ、それらのエレメンタルの奴隷として使われ、屈辱感がもう当たり前となり、むしろ強い者に管理され、コントロールされる奴隷身分でいることが何も考えなくてすむので楽な生き方となってしまった場合の「何も変らないし、自分たちに変える力なんてない」と信じて疑わない「信念」とは、雲泥の差があるし、まったく異質で異次元のものです。

 

 同じ男性energyであっても、未知なる領域(その最たるものが物理次元を超えた霊的で宇宙的な次元)の探究に向けて伸びて行かれる男性energyと、既知の知識や事柄、物質世界と世俗的な価値観(権力や富や地位)にしがみつく男性energyがある、ということでもあります。

 

 

 ひとつぜひとも認識しておく必要のあることは、上に述べた二つのタイプのどちらでもない人間類型があることです。彼らは批判します。政府はデタラメだ。なんと愚かな政策だ。国民も愚かな愚民だ、と。狂っている、と。人間じゃない、と。そうやって政治家を、官僚を、財界人を、そして、陰謀家と陰謀組織を批判し、非難し、こきおろし、蔑み、嫌悪し、憎みます。


 人が自分の内側に空虚さを感じているとき、自分自身に価値を見出せていないとき、自分を否定し、自分の人生に感謝しにくいとき、自然な流れにそうよりも、何かの型に自分を嵌めずにはいられなくなる。虚像を、まやかしの像をなにかに投影することでかろうじて自己存在証明を得なくてはならなくなる。愚かで、邪悪な連中にたいし、自分は何もかもワカッテイル、強欲や残酷さや品性下劣に堕した奴らとは、区別されるべき高貴な人種だ、少なくともマトモな人種にはちがいない、と。それによって、奴らよりは遥かに上等でましな人間なのだ、自分は、と相対的に自己の価値を高め、優越感の感情を味わおうとします。

 

 

 

 だから、悪が横行する世にあって、個々の現象や出来事、つぎつぎと明るみに出てくる真相を鬼の首を取ったように晒し、拡大して見せ、批判や非難の集中砲火を浴びせ、軽蔑や憎悪や怒りの感情をぶつける対象として、公衆の面前に獄門さらし首の刑みたいに引っ立てるという、ちょっと「やり過ぎ?」というくらいの過剰な行為の裏には、そうした異常ともおもえる心理を見ないわけにはゆかないのです。そして、重要なことは、彼らは何も解決策を示さないし、光明に満ちた希望のビジョンも描けないことです。ただ、中毒しているだけです。ネガティブな現象に。そこにフォーカスをあて、言い立てることに。もはやそれは快楽なのです。だからこそ、そのエネルギー・バンパイアと化したエレメンタルのニーズと、それに応える情報やストーリーを提供するという需要と供給のバランス自体が、マーケットを形成し、ビジネスとして成り立ってもいます。そうなると、どれほどに深刻な事態であろうと、エンターテイメント化します。たとえば破滅してゆくストーリーをゲーム感覚で見て楽しんでいる消費者は、まさにそこで扱われている当該の世界の住人でもあり、世界の終りを見ている自分とその中で滅んでゆく自分、つまり精神と肉体が同じ人間のそれぞれの部分であることも忘れ果ててしまうという奇妙な分裂に陥ります。こういう馬鹿げたことが今起きていることなのです。マルチメディアの急激な発達、AIとバイオテクノロジーとナノテクノロジーと宇宙開発の異常な発達(本当は発達は進化ではなく、テクノロジーの誤用であり、科学の退化ともいえます)による人類史上いまだかつてない顕著な現象として。

 

 

 

 もちろん、起きていることに頬かむりをして見ないよりも、直面することは最低限必要なことです。しかし、度を越してしまうと、ネガティブエネルギーを増幅する装置と化してしまいます。こうなるともう人々から光を奪い、弱体化させて支配することを狙う悪の側にとって都合のよいことをしていることになります。

 

 現状への不満や非難と、未来への希望と実現可能性への確信が、相容れないのは当然のことです。何が言いたいかというと、こうした人々は結局、先ほど挙げた二つのタイプのうちの「何も変らない」「世の中は悪くなる一方」という派に属していることになってしまっているということです。

 

 違う点はひとつ、「羊のようにおとなしく軍門にくだりたくはない」「最後まで抵抗する(つもりになっている)」というある種の「不撓不屈(ふとうふくつ)」と「独立性」を主張するエネルギーなのですが、これはじつは、男性性の特徴である独立エネルギー(independent energy)のひとつのあり方を示しています。

 

 しかし、そこにはエゴ(正しくはエゴイズム)が潜んでいます。同じ男性エネルギーでも、いわば低次のエネルギーです。それは、物質や肉体やこの世的な、地上的世俗的な力を求める方向に向かう粗雑な、周波数の粗く、遅鈍なエネルギーです。そして弱いです。

 

 個々の事象や現実を集めてきては、「ほら、こんなヒドイことが行なわれてるよ」、「こんな残酷で邪悪な計画を立てている奴がいるよ」と、言ってる人たちは、結局、そうした人類の奴隷化や家畜化をねらって全体主義社会をつくろうとしている人々にたいし、抗(あらが)えない、のです。二大悪魔であるルツィフェル(ルシファー)とアーリマン。そして第三の悪魔と、シュタイナーによって呼ばれるアスラ。それぞれ、人類のアストラル体に忍び寄る、エーテル体に侵入する、自我をもぎ取って行く、といった特徴があり、それぞれの嫌らしさ、手強さが異なります。

 

 いちいち現象を取り沙汰にし、自分の信念強化のためにこれを利用し、ますます「ほれ、見ろ」式に自己の信念の正しいことを証明しようとする傾向は、「細部にこだわり、拘泥させる」アーリマン衝動の影響が顕著です。ちなみにアーリマンの特質は、現実主義、計算高さ、合理主義、唯物論、(感性を)干からびさせる、です。ルシファーは、夢想家、熱狂主義、若さ、神秘主義、霊感や霊的なものに偏る、です。

 

 どちらに傾きすぎても、悪魔の思う壺です。「お前の言うことは理想論だよ。現実を見なさい。もっと現実を知れ。お前は損するよ。賢くなれ」。「あなたはあんまりにも夢がなさすぎだ。こんなに素晴らしい計画にたいして、どうしてそれほど慎重になるんだ?物事は理屈じゃない。信じたとおりになるのさ。どんな前例も、データも、科学的な法則もあてはまらないし、あてにならない。想像力の翼を羽ばたかせようではないか。われわれの王国の実現は目前だ。ユートピアがすぐそこまでやってきている。迎え入れるかどうかは、君の意志しだいだよ」。

 

 前者がアーリマン的な霊的存在の囁きで、後者がルシファー的な霊的存在のそれだということは、言うまでもありません。

 

 彼らは協力して地球人類の霊性(スピリチュアリティ)の進化の道を妨害しようと何千年にもわたり神や大天使、天使的存在、またそれらに奉仕する肉宮、生宮(つまりとくに清浄なみたまの注入され、受肉した人間)にあらゆる手段で対抗してきています。 

 

 いずれの極にも偏らずに真ん中にいるのは、キリスト意識であり、キリスト衝動のエネルギーを受けつづけ、浸透されつつあることで、可能になってきます。

 

 それには何でもかんでも女性性と男性性の統合が起ればよいというものではありません。今回少し問題にした男性エネルギーなら、どんな質の、どの程度の高次の男性エネルギーであるのかが重要です。

 

 大事なことは、女性性と男性性の統合というテーマが、スピリチュアルなことに興味のある人々、そちらの方面の勉強をされてきた方々のあいだでどれほど正しく理解されてきたか、です。

 

 まだまだ物質界、肉体界のレベルに引っ張られた重くて未浄化な女性energy、粗くて粗野な男性energyにとどまるかぎりは、内的にも外的にも真の変革に導いてゆくことはできません。

 

 近年、感じるようになったのは、何々になりたい、何々を実現する、といった個人的欲求・欲望の投影された或るスピリチュアル用語が、あたかも願いをかなえる万能ツールであるかのような幻影をまとって独り歩きしがちな傾向性です。ルシファー的な衝動の影響がある気がします。欲望を三次元、物質次元で現実化することにマジック(魔術)を使う伝統もあれば、あくまでも物質的繁栄やこの世的な欲望達成の道を経ないで、真理探究をつうじて霊性を高める道もあります。ここではどちらが正しいという問題ではなく、何を選ぶのかは、個人の自由意志にゆだねられている、とだけ言っておきましょう。

 

 

 それはさておき、……真のスピリチュアリティとは。これは一回では語り切れませんし、わたし個人の力で先人の偉大な仕事をまとめて紹介するなどということはとうていできません。

 

 今回、クローズアップしたかったのは、高次の男性性、男性energyとはなにか。(高次の女性性、女性energyについては、別の機会に取り上げたいとおもいます)現在の日本の危機、世界の危機の状況下で、この課題を仕上げることが急務だと感じています。

 

 

 

 この続きについては、先日スタートしたばかりの「たま・ほんや」のメルマガに場を移して、出版の未来を考えたり、本好きな人のために本の話をしたり、小説家の日常や実作者の舞台裏をテーマに語ったり、本の企画や出版予定やイベント開催のお知らせなどをしながら、読者の皆さんとともに考えてゆくことにしました。 

 

 

 そして、前回の記事でつぎのように書きました。「スターシードとか、ライトワーカーとか、ライトウォリアーと呼ばれる人々にたいする攻撃は、とくにこの一年くらいで激しさを増し、光が強くなればなるほど熾烈を極めてきているだろうと、自分の経験から推察します。いま必要なのは、こういう人間同士でゆるやかにでも手をつなぎ、結束してゆくことです。ぜひ、つながりましょう!」と。これは、引き続き変わりません。

 
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