わたしの人生を決定づけた体験

 

 わたしの人生の早い時期から、「日本人」は下から3番目の第3チャクラである、みぞおちの太陽神経叢に位置する「権力の座」と呼ばれるパワーチャクラが、「やられちゃっている」ということに気づいていました。そして、これこそは、取り組むべき大きな問題だと認識してきました。個人的な課題としてだけでなく、日本人全体の課題としてです。

 

 それには、自らの体験的事実からある真実を知り得たことが、ひじょうに大きかったです。

 

 その話にはいる前に、その体験談をシェアする前にまず第3チャクラについて、基礎的な情報を共有しておきましょう。後の論考もふくめて参考になったのは、『サトルボディヒーリング』(リーラ/ブラサード/アルジュナ著 和尚エンタープライズジャパン 新装改訂版は2012年刊)というタイトルの一冊の本です。サトルボディとは、文字どおり物質よりも精妙なエネルギーレベルの波動で構成された体です。エーテル体とかアストラル体とかメンタル体といった神智学用語でも知られます。

 一方、ヨガで使われるナディ(経絡)とも対応したエネルギー中枢(センター)であるチャクラでいうとマニプーラチャクラ、みぞおちの太陽神経叢に位置する3番目のチャクラを、パワーチャクラとも呼んでいます。その字のごとく個人が個人であるため、個人として独立して立つための力がこのエネルギーセンターから生まれてきます。

 

 「私はある」「私はできる」「私はできるのだ」という力強い感覚を生みだす第3チャクラ。そしてこれと対応するのが第3身体(アストラル体)ー肉体から10センチから30センチ離れているーです。

 

 

 さて、話をもとにもどしますが、わたしがパワーセンターの問題に関心をもつようになったのは、20代後半で瞑想とセラピーを経験していた時期に、高名なアメリカ人女性セラピストから個人セッションを受けたことからでした。

 

 その場で指摘されたことがありました。それは、わたしの過去生の傷であり、世間と対立し、ノーを言うことへの恐れでした。このノ―のエネルギーが、第3チャクラにあったのでした。

 

 彼女はキリストとソクラテスの例をとりあげて、わたしに必要なメッセージをわかりやすい喩えとシンプルな言葉で伝えてくれました。‥‥‥柔らかな薔薇の花がただ開いている。と、そこへ石をもって打ち砕こうとする者が近づき、薔薇は傷つけられ、壊される。しかしたとえそうであっても、あなたは恐れてはならない。世間にたいして、「真実を言う」ことをやめてはいけない‥‥‥。

 

 彼女が、わたしの全身をサイキックなレベルでリーディングし終え、しばしの沈黙と瞑想の後、わたしの眼を真剣に見つめて伝えてくれた言葉がそれでした。磔刑(たっけい)に遭い十字架につけられる際に、「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と、言い残して肉体生命の最期を遂げたキリストと、毒盃をあおいで従容として死を受け容れたソクラテスの影が、わたしの脳裏をかすめました。

 

 同時に、わたしは一言も発せずに、たたただ胸に熱いものがこみあげてきて、涙がとめどなく流れ、頬を伝ってくるのをおさえられませんでした。なにも考えずに今起きていることだけを意識していました。

 

 おそらくその時、わたし自身の魂の本質にタッチしてくれた喜びを感じ、そして向こうの世界で約束してきたことを思い出させてくれたことへの感謝の感情に全身の細胞が浸され、魂が打ち震えていたことでしょう。

 

 

 人間には大別して二つのタイプ(こういう分類が乱暴にすぎることは承知して)があるとおもいます。

 

 第一、 周囲や世間とのあいだになんらの違和感もなく、生きるのがさほど困難と感じない人。

 

 第二、 それとは反対に、違和感を感じ、生きるのが難しい人。

 

 つぎに、第二のタイプでも、また二つのタイプに分かれるとおもいます。

 

 第一、 周囲への違和感や世間との価値観の懸隔を感じないふりをして、なんとか自分を矯正し適応するよう努める人。

 

 第二、 ひとたび自分自身の魂の声を聞いたなら、それを中心軸として片時もそれを離れず、周囲に引きずられ、染まらずに、世間にたいして、型に(はま)ろうとしたり、合せようとする努力もせずに、ただ自己の魂の声に忠実に生きること、名もしれぬ野の花のように無心に咲きつづけることにより、結果的に周囲の人々や世間に影響や感化をおよぼす人。

 

 この他にも、恩人ともいえるセラピストとの邂逅のおかげで、貴重な体験と学びがありましたが、それはまた別の機会に譲ります

 

 

 

  なぜ今、日本人にとり第3チャクラが重要なのか

 

 さて、体験談はここまでとし、ふたたび話を本論にもどします。「日本人」は下から3番目の第3チャクラである、みぞおちの太陽神経叢に位置する「権力の座」と呼ばれるパワーチャクラが、「やられちゃっている」ということを書きました。

 もう少し具体的にいえば、「~すべき」「~すべきではない」という内在するノーの声にたいして条件反射的につい無意識的に振る舞ってしまう。

 

 つまり、第6のチャクラ(眉間)の条件付けによる不自由さと第3チャクラが連動している状態になっています。

 

 たぶんインドの神秘家OSHO(和尚)がディスコース(講話)で語ったのにちなんだものとおもわれますが、わたしの恩人は、この点につき、ニーチェのツァラトゥストラに登場する発達の3段階の喩えであるラクダとライオンと子どものうち、第3チャクラにノーがある状態のへひとつとして、義務感から反応する場合、自己否定があるわけですが、これは重荷を負って沙漠を行くラクダの段階であると教えてくれました。

 

 しかし同じノーでも、ライオンの態度は叛逆とか反発とか抵抗とか闘争であり、わたしの過去生のパターンであるノーというのは、世間にたいするものですから、ラクダではなく、ライオンに相当するものであったのです。

 

 しかし、ラクダにしてもライオンにしても、どちらもエゴからの反応になります。そこには、自由なスペースがありません。つまり、何か外の刺戟に反応するとき、瞑想のスペースから感応するのではなく、条件付けられた頭(マインド)から、機械的ないし反射的にリアクションしてしまうので、自由とはいえない。

 

 これにたいして、子どもだけが、瞑想的なハート💗のスペースから、自己の内側のエナジーとつながり、そのエナジーにたいし素直にイエスを言うことで感応してゆくことが可能できます。ラクダが義務の重荷に耐え忍び、ライオンが権力や権威にたいし、抵抗し、闘いを挑み、無垢な子どもは、外側にはいっさい反応しないで、ただ瞬間瞬間に変わる新鮮な自分自身のエナジー、魂の真実だけに忠実な、自然で自由な状態にあります。もちろん子どもがノーを言わないわけじゃありません。ただノーを言う態度でさえもが、イエスからのノーになる❗️相手を否定するでもなく、ただ自分の内なるエネルギーのありかたを肯定してそれを素直に相手に伝えている。

 

 かつてわたしが恩人から言われた、ノーを言うのを恐れてはいけない、恐れなく真実を言ってゆきなさい、という言葉の真意はそこにあったのです。

 

 もうおわかりかとおもいますが、日本人はどうしてもラクダを演じがちであるということですね。ここは個人的にのみならず、日本人全体としても取り組むべき最重要な優先課題だという認識をその当時からもっていたと書きました。

 

 ここで確認しておきたいのは、今わたしたちが、どのような世界状況のまっただなかに投げこまれているのか、ということです。

 

 近年ようやく多くの人たちの共通認識としてスポットライトを浴びるようになってきたものに、悪意ある人々があらゆる手段を駆使して、そういう人たちの眼から見たら何も考えずに生きている無知な人々の生命の安全を奪い、生活の自由を侵害することで自らの野望を達成せんとしている、という見方があります。

 

 そして、そこで照明のあてられている悪事が真実起きていることであり、これを知ることがどれほど大事かに気づいている人、反対に気づくどころか、嘲笑的で批判的な心をこめて、立場の反対な人々にたいし「陰謀論」者とレッテル貼りをし、決めつけ、ジャッジメントを下すことで、一生安泰でいたいという強い欲望を支える信念を崩しかねない不都合な情報を、排除しようとする無意識の機械的な拒絶反応によって、間接的に悪事に加担している人とに二分しつつある、という世界構造がいよいよ顕著になってきました。

 

 ここまでくっきりとしたコントラストが浮かび上がってきたという事実からして、わたしたちは直面すべき壁にぶつかっているともいえます。が、しかしそれを壁とみなすのか、それともチャンスとみなすのかは、選択できます。

 

 上に挙げた事例、世界が二分されている、というのは、もちろん多かれ少なかれ世界的な現象でありましょうが、わたしが注目したいのは、とくにこの国において、特有の事象であり、じつは今に始まったことでない、もともとこうなる素因が潜在的に国民の精神構造のなかに胚胎していた上でのことである、という点なのです。

 

 そういう潜在的な因子が、コロナとコロナウィルスワクチンの実施という機縁に触れることによって、発覚し、発現し、発芽して、にょきにょきと大きくなって、いまやいかにも日本的な、あまりに日本的な、日本人の典型ともいうべき現象をとおして、潜在していた日本人のDNAの一側面である性質が、(あらわ)になってきている、とわたしは見ています。

 

 こんな説明をしなくたって、もうお子さんをもつ若いママさんやすでに社会人となった息子さん、娘さんをもつお母さんにおいては、痛いほどわかるよ、という方はいらっしゃることでしょう。

 

 また、働き盛りの方々が、いま職場でワクチン接種に関して直面している問題をつうじ、悩み、ストレスを感じ、個人個人の心の中の葛藤や分裂だけでなく、人と人との対人関係においてもコロナさえなかったなら、ワクチン政策さえなかったらと、残念におもう分断の苦い味を味わっているという方々も少なくないことでしょう。

 

 いずれにしても、わたしが若い時、これこそは、日本人として生まれた自分にとって、一生のテーマだとおもったことが、やっと今、はっきりとその重大性を教えてくれつつあることに変わりはあまりせん。

 

 まだその全貌が現れてきてはない日本人の集合無意識的なものの秘密が、これから解き明かされてゆくことでしょう。そして、ここを関門として、魂の開かれるつぎの高いステージへと飛躍してゆくはず、という直観を得ています。

 

 

 2009年11月 逗子小坪の自宅二階のベランダからの眺望

 

 

 

 第3チャクラ(権力の座)をとおしての学びとは

 

 これから少しだけ、先に紹介した『サトルボディヒーリング』の第3身体(3番目のチャクラに対応)に関して書かれてあることを要約しつつ、問題の本質に迫ってゆこうとおもいます。

 同書は、かれこれ10年ほどにもなりますが、震災のあとにわたしも日本語訳の改訂にあたり照校の仕事にたずさわったいきさつがあり、自分の精神的成長の助けにもなってくれ、いまだにたいへん信頼に値する情報を提供してくれていると感じています。

 

 まず、最初に理解しなくてはならない大切なポイントを以下に書きます。

 

 第3身体(アストラルボディが健康なら、パワーは内側からやってきます。

 

 不健全なら、他人からの支持と承認をつうじてやってきます。

 

 後者なら、不均衡で病的です。なにをやってもそつなくこなす優秀な人間と見なされている自分が自分と信じている人がいるとします。でも、この人はじつは自分は頭が悪いのかもしれないという劣等感につねにおびえています。

 

 また、だれにも負けないくらい美貌の持ち主としてもてはやされてきた女性は、ほんとうは稀代のブスであることに皆が気づいてしまう日が然訪れるかもしれないという幻想におびえています。

 

 同様に、体力も腕っぷしもアスリート並みの筋力も運動神経も自他ともに認める男性じつは弱い人間であるのかもしれないという不安に(おのの)いている。もちろん、怪我や病気でガタガタになり、ライバルに簡単に抜かれて惨めさを味わう場合は、実際にあり得る話ですが、そういうことではなく、もっと深層心理に潜む自己矛盾というか必然的ともいえる葛藤について話しています。

 

 では、いったいどうして、このような矛盾を抱えしまうのか。第3身体が健全さを失っておかしくなってしまう原因は、どこにあるのかということになると、一口で言えば、幼少期に親の歓心を買うために、相手の望むような人間になろうとすることにあります

 

 

 

 第3身体と呼吸との関連性

 

 ここで詳しい説明に入る前に、呼吸との関連性に触れます。吸う息において、人は強さを感じます。一方、吐く息において、人は弱さを感じます。

 

 第3身体で吸いこむ能力を強く発達させている人は、強い意志力をもちます。物事を成し遂げ、強い磁石のように他の人々を惹きつけ、自分の考えや指示に従わせたり、その気にさせたりします。この働きは、人と溶け合う働きの第2身体(エーテル体)の水の働きにたいして、電磁気的な力をもった火の働きになります。

 

 多くの人において、世間で成功する人間やパワーを持ち、それを駆使できる人間に憧れ、たくさんの人々から注目され、愛される魅力的な人間に尊敬や羨望のまなざしを向けがちな面をもつのは事実だとおもいます

 

 そうすると、世間の多くの親のなかにそうした願望がひそんでいると考えるのは、それほど突飛でもない見方ではないでしょう。

 

 親が自分の子に理想を投影する。知らないうちに子にたいし、親自分の願望に沿った評価軸をあてはめます。それ言動に反映されてきます。

 

 子はそうした態度を敏感に感じ取ります。すると、親の期待を満足させるように自分を仕向けます。これは親の潜在意識に誘導されたから、そのように自分の人生脚本の設定をおこなうように子自身が自分の意思を誘導するとも考えられます。

 

 子は親の愛(実際はエゴイズムに近いエレメンタル)に応えようとするわけですが、そうやって、いつしか子は、本来の自然な自分と切り離されてゆきます。そうして、出来上がった親の期待に応えた自己像のことを、『サトルボディヒーリング』のなかでは、キラメキ・イメージと呼んでいます。

 

 好ましい自己像、といっても、それは子自身にとって好ましいという意味ではなく、他者、ここでは親にとって、好ましいという意味です。

 

 

 

 偽りの自己像 キラメキ・イメージの行き着く先

 

 そうしたキラメキ・イメージを本当の自分と取り違える錯覚を起こした本人は、同時にまだ生きている、というか殺しようのない、内側から湧出してくる生命のほとばしり、偽らざる自己の真実のエネルギー、魂の声というものにたいし、耳をふさごうと努力しても、そうした働きかけを無視しようとしても、完全にはそれに成功することはなくて、結局は葛藤に悩むことになります。

 

 そもそも、キラメキ・イメージを想い描く行為は、アストラル体・第3身体のエレメンタルを使って作り出した歪められた自己像に息吹を注ぎ、この力に自分を乗っ取らせることです。

 

 その目的は、子が親に愛されたいがために有効とおもわれた戦略身につけることにより、他者(この場合は、親)から、注目と賞賛のエネルギーを集めることです。

 

 この「親」の賞賛があたえる満足というのは、状況やケースによっては、もちろん「周囲の人々」がくだす肯定的評価による満足でもよいし、「世間」の眼が普通の人間だと認めることで得られる満足でもよいわけですね。ただし、それぞれの満足の質は、異なることでしょうが。

 

 親の庇護のもとにある子の立場と、周囲の人々と対人関係においてうまく付き合ってゆかないといけない大人の立場と、生活上どうしても無視できぬ世間常識を重んじた場合、けっして奇異な眼で見られることを望まない生活人の立場と、当然変わってきますから。

 

 しかし、それらのどれでもない、という人間がこの世の中にいるのは、否定しようのない事実です。そういう人にとっては、方便として作られた自己像が、本当の自分として生きることを著しく阻害し、またそうすることを他人にも強要しかねないほどに、無理と不自然さに満ちた「まやかし」であることを、直観的に知っています。

 

『サトルボディヒーリング』の3人の著者が、日本人ではないことと、ここで3身体を分裂させ、シャドウサイドとのあいだに分裂と葛藤をもたらすキラメキ・イメージが、親に認められ愛されたいという欲求のための戦略であるということ以外に「世間」の集合無意識や集団の条件づけられたマインド、集合的な欲望エレメンタルに適応することで、生き延びよう、安泰でいようという画策であり、戦略でもあるという点への言及がないこと、それにかなった事例が持ち出されていないことは、決して無関係ではないとおもいます。

 

 わたしはこのように10年以上も前に(改訂前の同書の初版が2008年)世に出されたこの本にたいして、当時は気がつかなかったことをようやく今になって強く感じています。