もう四日前のことになるが、たいへん良い映画をAmazonプライムで観てこれまで味わったことのない感銘をおぼえた。まずこの作品をブログをつうじておしえてくれたcodenameT氏に感謝する。冒頭シーンで歴史を感じさせる欧風の重厚な建物のたち並ぶ街が目に飛びこんでくるとともに叙情的な音楽が流れる。(こういうの好き…)という第一印象はさらに蒸気機関車が登場するに到って決定的となりハートをつかまれた。(これはきっと良い映画に違いないぞ…)やがて〝人間〟が出てくる。だれもが黙々と通勤する朝。昨日も今日もそして明日も。同じ日がつづく。機械仕掛けの装置のように。正確に時を刻む時計のように。そうした人種の温かみに欠ける内面に今日から出勤という新人が遭遇してショックを受けるのは、駅のホームで職場の先輩たちと初めて接する場面だ。彼はまだ〝人間的〟な温かみを残している人物だという印象が映画を観る側に伝わる。さて通勤先はロンドンの市役所。それだけでもうスクエアな印象だが、舞台はその役所内の市民課。書類の山に囲まれた職場で所狭しと執務する役人たち。ここでいよいよ映画の主人公である課長が登場する。ここから、ネタバレのことは一顧だにせずに思いつくままに書きたいことを書くので、そこはよろしく。


 

 さて、主人公の課長は、人柄は謹厳実直そうな人物に描かれながら、あたりに堅苦しい空気を醸し出し、その場の部下たちは寡黙に仕事する。そんなフィールドを形成する中心となっている。その課長は健康上の問題を抱え、検査の結果、がんで余命幾ばくもないことを宣告される。彼にとっての本当の痛手は自分の命がもう長くはないということよりも、今まで生きてこなかったという事実を改めて突きつけられることだった。懊悩とともに残された日々をどう生きるかの挑戦が始まる。偶然出会った自分よりもだいぶ年の若い不眠症の劇作家に、もはや不要となった自殺用の睡眠薬を全部あげながら、初めて他人に短い余命であることを打ち明ける。ふたりは歓楽街をほっつき歩いて遊興施設に入り、酒場をめぐる。主人公の故郷であるスコットランドのナナカマドの木にまつわる民謡を歌う場面は感動的だ。後日、異例の連日におよぶ課長の欠勤を心配した部下の女性と街角でバッタリ出くわし、ランチをともする。そこで職場の人間にはそれぞれあだ名がつれられていて、自分がひそかに〝ゾンビ〟と呼ばれているということをおしえてもらう。そして互いに笑い合う。それをきっかけに彼は親子以上の歳の差のある彼女に惹かれてゆく。かねてから転職を希望していた彼女はまもなく役所を退職する。転職先の飲食店で働く心の恋人のところに客としてもぐりこんだ彼は、ウェイトレスとして働く彼女にいっしょに映画を観に行かないかと誘う。彼女は困惑の色を隠せない。彼は云う。「連れが欲しくてな―」と。そうやって親子ほどの年齢差のあるふたりはデートすることになるが、すぐ町の噂となってひろまり、息子の妻は義父が噂の対象となっていることに腹立ちをおぼえる。やがてかつての部下だった相手の女性に真実を打ち明ける。「生きることなく人生を終りたくない」。これが彼の魂の真実の声だった。彼女は大きく見開いた目で相手を見つめ、声を聞いた。そしてその気持ちを受けとめた。彼女は生き生きとして屈託のない愛の人だった。あなたが来て職場の空気が一変したと、彼は正直に伝える。彼女のおかげで、今やっと魂の真実に真向うことができたばかりか、誰かほかの人と真情を分かち合うことができたのだった。「ハリス君、長々と君を引き留めて済まなかった。バス停まで送ろう」。それが最後になった。

 

 

 

 自分で選んだ道であったはずが、何か間違った選択をしてしまったのではあるまいかという疑念に長年さいなまれつつ、なんとか自分をごまかして生きてきて、予期せぬ死の宣告を受けた時、それまで覆い隠してきたものが一気に露呈する。その時、本人を襲った感情をなんと表現したらよいか。難しい。が、敢えて名づけるとすれば、喪失感だ。これを何で埋め合せるべきか。どうやったら失われた時を取り戻せるのか?いや、それは時間なのだろうか。それとも……。「連れが欲しくてな―」という課長の言葉がやけに印象に残る。それはただ物理的にそばにいてもらい場を共有するだけではない。金を使い、ストリップ劇場に入り、乱痴気騒ぎと酒と煙草の臭いの充満する空間に身を置いても、埋まらない心の空虚さが、なつかしい故郷の歌を口ずさみ、遠い幼い日に思いを馳せることで豊かな心持ちになれた経験はおそらく時間を超えているだろう。

 一方、もうひとつのタイムラインとして、映画の最初のほうで役所に陳情に訪れた二三人の婦人によって持ちこまれた、廃墟をぜひ子供のための公園にという訴えがあり、この陳情案件に誠実に対処しようと決意した課長が人生最後の仕事をするというストーリーが併行して走っている。人生で大切なものとは何か。役人として大切な精神とは何か。課長が亡くなる前、新人の部下に託した手紙がある。課長の後釜となる人物が、クラシカルな列車のボックス席でこの新人を含む課の後輩・部下たち三人と話すシーンがあり、我々は今後、課長を手本にしようと言い、「責任逃れをしない」、「後回しにしない」と皆の前で理想目標を掲げ、これを共有すべく宣誓しながら、その後、持ちこまれた案件にたいし、さっそくこの誓いの言葉を裏切る態度を示すや、新人は席を立ちあがり、もの言いたげに相手を見つめ何か諫める言でも語るのかと思わせながら、発言を思いとどまり、代わりに手にした手紙に目を走らせる。大事なことを忘れそうになったら、あの公園に行くこと。彼の足は夜の公園に向く。そしてパトロール中の警官から呼びとめられて会話になる。公園をつくることに尽力した課長のことを警官に話したら、いかに人々から故人が敬愛されていたことかということだけでなく、それ以上に感動的な事実を聞かされることになって……。ラストシーンに最も泣ける仕掛けがしてあったとは!!


 

 いや、それにしても驚いたことには……。課長を演じたビル・ナイという俳優<codenameTさんの好きな名優とのことだが、知らなかった>が妻の父親と瓜二つであったのだ!!そのことは映画が始まってこの俳優が登場してすぐに感じたことであったが、ほどなくしてどちらからともなくそのあまりに衝撃的な印象を口にすることになり、ふたりともまったく同じことを感じたのだった。義父からは常に新しいことにチャレンジする姿勢で精一杯生きる姿を見せらてもらい尊敬しているだけに、どうも映画の中の主人公の生き方とだぶるどころか対照的に思われ、その点また奇妙に感ぜられたことだった。併行人生(パラレルワールド)という言葉が思い浮かぶ。単に他人の空似ということではない何かがある。本当に顔の輪郭、骨相、両目の間隔から、口元、顎のあたりまで、そして目もとを中心にときどき見せる特徴的な表情までもが、不思議なくらいに似ているのだ。してみると、生き方の違いは、むしろ現れた面にすぎないのかもしれない。本質の魂の部分には、波動的に同質のものがあるように思われてならない。主観的な印象の域を超えた客観的事実があるのは否めないというこの一点は、どうしても譲れないと思った。その意味でも、これは特別な映画作品となった。

 

 

 

 もう一つ書いておきたいことがある。それはこういう西洋映画を観たのは初めてだということ。間合いや沈黙を大切にしている。目つきや態度など、非言語的(ノンバーバル)なコミュニケーションの深みを上手に表現している。その意味では、いわゆる邦画の小津ものといわれた小津安二郎監督作品なんかを連想させた。というとまた『東京物語』の笠智衆と東山千栄子の演ずる老夫婦の言葉少なの演技がすぐ思い浮かぶ。黒澤明監督の同名のオリジナル映画作品のリメイク作品である本作にたいして、わざわざこうした連想を持って来るのは、甚だ見当違いかもしれないし、日本的な沈黙、寡黙、静謐さの妙を身上とした撮り方をしている人は他にもいくらでもあるのだろうけれど。ただ、映画を観終わってから知ったことであるが、脚本を担当したのが、日本生まれで1983年以降英国人となり英国在住のカズオ・イシグロ(2017年ノーベル文学賞受賞)であるということだ。このことがどれほど影響しているのか、ということに関しては、憶測の域を出ない。ともあれ、ブログをやっていると人生でも稀有な人との貴重な出会いがあり、こうした作品との出会いもあって、2019年12月から始めたこのアメブロにも感謝している。これまでに<シネマ評>のカテゴリーで何本か映画の感想を書いてきたけれど、今回はこんなに長くなる予定はまったくなかった。ボリューム的にも比較的長いと感じられ、熱量という意味でもそれなりにあった三年前の『砂の器』と比べても遥かに上回るロングな文章になった。まあ、それはそれでよい。そして、この〝ネタバレ気にしない〟というスタンスで書かれたシネマ評が、倫理的に許されるものであるのかどうかといった裁定についても、読んだ方々にゆだねたい。自分としては、何も云う資格はないし、なんらの罪意識も改悛の余地もないことだけは明らかだ。

 

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音譜 上の話に登場するcode name T氏のブログです。こちらでコメントのやりとりをしたのは、八日前。Tさんありがとうございます!ニコ