母の命日である6日に白百合の花を見つけて買ってから今日で6日目になります。

 

 2輪しか咲いていなかった百合は、つぎつぎと開花して、かぐわしい香りを部屋中にはなっています。

 

 6輪の花が咲くはずでしたが、今日、蕾の状態で落ちたのがあり、開花の待たれる蕾をひとつ残すだけとなりました。

 

 

蕾をふたつ残して、四輪の花が開花した百合   4月10日撮影

 

 本当に良い買い物をしました。きっと母が振り向かせ、買わせてくれたのでしょう。

 

蕾を三つ残して、三輪の花が開花した百合   4月9日撮影

 

 ところで、先日、ダスカロスのヒーリングのことを書きました。

 

 娘さんの 『光界への門』ーエクササイズと瞑想ー パナヨッタ・セオトキ-アテシュリ著 須々木光誦訳(エドコム株式会社 2009年刊)という本に載っているヒーリング方法を実践していますが、他の項目に「白いゆり 形態へのアチューンメント」というのがありました。そこで、百合は特別な花であるということを知りました。

 

 

 キーワードは、≪アチューンメント≫なんです。それは自分の周波数を対象と同じうすることで、対象とひとつとなり、そのあるがままを感じ、知ることを意味します。現在の社会においては、きわめて困難なことですが、この方法の実践をおいてほかに相手を真に理解する手立てはないのだと、おもいました。

 

 

 

 わたしたちの置かれた世界は、情報が氾濫しています。「知る」ことは、こうした「情報」をとおしてしかできないという信じこみがあります。

 

 それは、「アタマ」を唯一の入口としてしかアクセスできない知識による認識です。けれども、わたしたちの能力は、そんな限局された通路を使ってしか物事を理解できないほど、狭小な認識しかできないものではありません。

 

 目に見えるものだけしか信じない、という人がいます。この人は、五感をつうじてしか真実は認識し得ないと信じています。それはしかし物質波動のみに周波数帯域を限局して受信しているがゆえに、宇宙に存在するもので、知り得るものは、物質的な波動領域のものにかぎり、そのほかの存在は、知り得ないと、自らの判断をもって「決めてしまっている」態度を選んでいるという限界を示しているにすぎません。もし、そうした態度が多くの可能性の扉を閉ざしているということに気づいたなら、その人の人生は劇的に変わることでしょう。

 

 それでは、以下に前述の本からの抄出をお届けします。ただし、これだけを読んで、すべてだと考えてエクササイズを行わないでいただきたいとおもいます。もし、エクササイズに真剣に取り組もうとするならば、ここに紹介した本を購入して行っていただけますように心から望みます。

 

 

選曲: 言海 六羽

 

 

 「私の父(筆者註-ダスカロスのこと)は、すべてのものの確認と観察をいつも私に求めました。父は常日頃、「私たちは今、地球上に生きているのだから、私たちの故郷を知らなくてはいけないよ」と言っていました。動物、植物、鉱物の世界は、私たちの自然界の一部です。私は、それらの自然にアチューンメントするときは、波動の周波数を落とす必要があることを学びました。そして、大天使たち、聖母マリア、ジョシュアにアチューンメントするときは、より高い波動が必要となることは、自分の神聖な本質として理解しています。

 

 どうして花にアチューンメントすることが必要なのでしょうか? これは、その花についてのすべてを理解するための方法なのです。これによって、私たちは花がどう感じているかも知ることができるのです。結果として、私たちは自然界のすべてを尊重し、慈しみをもって接することができるようになるのです。」

 

(前掲書 p.45)

 

 

「あなたの手の中に、一本のゆりの花を視覚化して・・・その詳細を観察してください。しっかりとした茎や、やわらかな葉を感じて、シルキーで雪のように純白の花弁に触れ、香りを吸い込んでみてみましょう。」(前掲書 p.45)

 

 

 

 これは、目の前に実物の百合を置いて行うのではなくて、あくまでも今ここに物質としては存在しない百合について、その記憶をよみがえらせ、詳しく視覚化してゆくというエクササイズになります。

 

 

「他の思考はすべて止めて、あなたのすべての意識をその花に向けましょう。そうすると、花の波動が、あなたの波動と異なることを感じ取れると思います。呼吸のスピードを少しづつ落としていくと・・・波動も下がっていきます。ゆっくりと、あなた自身の波動が花の波動に同調していきます。」

 

 

 わたしたちの社会が、いかにそれぞれの人間にエゴイズムという立場を推奨し、助長しているか、ということが、よくわかります。

 

 

 なぜなら、資本主義社会で人々からお金を吸い上げるのに最も有効な手段というのが、まさに自己中心的で利己的な欲望を充足させたいというエネルギー衝動にたいし、満足させるためのモノとサービスを提供することにより、お金が支払われるからです。しかし、そうした人生の態度によって、人々が幸せになることは、絶対にありません。

 

 

 「自己中心的で利己的な欲望」と上に述べましたが、このエレメンタルが、物質的なものに向けられ手に入れることにより充足させられる場合(サイキカル体、アストラル体、感情体をつうじての欲望充足)もあれば、思想や信念を形成することで充足させられる場合(ノエティカル体、メンタル体、思考体をつうじての欲望充足)もあります。

 

 事実の全貌や真相というものは一つであるはずなのに、自分が観たいように観ようとする、あるいは見たくないがゆえに目を背けようとしたり、否定的なレッテルを貼って一蹴してしまおうとする場合があります。それは事実や真相という自分の外部に存在する未知のものにチューニングする(波調を合せる)よりも以前に、自分の内部で固執しているイメージのほうに自己同一化している状態です。

 

 問題は、「私はと考える」の思考内容は、あくまでもリアルに実在する「私」とは別のそれ自体が考え(想念)の一部である「私」が創っているイメージにすぎず、その「~と考える」思考内容イコール事実、真実ではないはずですが、このことに気づいているか否かです。しばしば自分の信じこみに基づいた世界観や歴史観に多大な心理的投資をしてしまっている人にたいし、その信念を打ち毀すような話をしたり、情報やデータを提供しようとしたときに、猛烈な反発や抵抗、怒りを招くことがある訳もそのへんにあるといえます。なんらかのストロークをあたえたとき、自分の信じてきたことにたいし少しでも疑問をいだく余地や隙間があれば、まだその人は「正気」を保っているといえますが、まったくそうした余地も隙間もないとなれば、すでに「狂気」に陥っていることになります。

 

 たとえば、自虐史観とか、歴史修正主義(*本記事末尾に参考動画があります)という人々の考え方や議論のテンプレート(鋳型)が、エレメンタルとしてあります。

 また、陰謀論がいまだに怪しげなイメージをまとわせられています。しかし、さすがに隠蔽されたり、情報統制されたりして今までは明るみには出てこなかった情報(もちろん、かならずしも事実とは断定できませんが、少なくとも検証の余地や人々に考えさせるきっかけをあたえる機会は少なからずあたえていることでしょう)が、バンバンと近年ネットを中心に出回ってきていて、もはや悪事は隠しおおせなくなり、〝陰謀論〟と〝難クセ〟つける側のほうがかえって恥ずかしいくらいに真実を知る人たちが多数派になりつつあるのもたしかです。

 

 こうなると、ますます変な欲望的衝動により、事実を歪曲し、真実から逃げまくるという態度自体が、見苦しく、なにも知らずに治験中の(予防?)注射を打ってしまってその結果、いまや大学病院の医師たちが、急増する口腔内の癌や外科的なアプローチで手術してもなお再発が増えている異常さにたいし、どう考えても原因は「〇〇チンしかないでしょ」と、漏らさざるをえない状況の犠牲者になってしまっている人もいます。この話は、先日大阪の肛門科病院のみのり先生のblogで知ったのですが、ここで紹介されている記事の中で呼吸器科の先生(これまでは反ワクの人たちを馬鹿にしていたらしいですが)も、患者さんの肺の異常や癌のあまり急増にたいし同様のことを語ったそうであることがわかります。(本記事の末尾にリンク)

 

 つまり物事をあるがままに見る、考える、という思考主導の「思考-欲望型エレメンタル」ではなく、潜在意識の恐れや不安や心配などから、権威筋の教授がこう語って保証してくれているから大丈夫などと一面的に都合のよい情報だけを信じて他の意見や情報には聞く耳を持たない、といった極端にバイアスのかかった態度からものを見、考えるという「欲望-思考型エレメンタル」(ダスカロス用語)に支配されることにより、わざわざ不幸を招いてしまうというケースです。「真実はよくわからないが…とにかく、大勢にしたがって打っとこう」という考えで、決定したことの結果、蒔いた種を自分で刈り取らなくてはならない、この責任の重み…という学びなんですね。

 

 だれも本当のことは知り得ない、と信じている人々がいる一方で、自分は真実の情報にアクセスでき、物事の全体と真相を把握できていると信じている人々がいます。その中には、自分が偉そうに感じている人もいるかもしれませんが、なにもかもわかっている人というのは、おそらくいないでしょうし、またなにもかもわからなくてもとにかく罠に引っ掛からないで生きてゆくにはじゅうぶんでしょう。

 

 これが、今の世界状況を如実に示す「分断」の構図です。

 

 それは、悟っていない人間のマインドが、いかに好き嫌いや恐れや好不都合の色眼鏡をとおして、部分的にしか見ることができていないか、その結果、マインドがあたかも「割れた鏡」のごとくに、物事の断片をしか映さないという現状を示しているとおもいます。


 

 なにが正しく、真実なのか、ということは、感覚的な認識でも、さまざまな欲望やバイアスにより歪められた思考でも、決してたどり着くことはできません。それらによって得られる像を超えてゆかないかぎりは、何が真実で、何が虚偽かは、永遠に知られ得ません。

 

 

 どうしてそれがよくないことなのかというと、「真実は知り得ない」といった誤った信念が人々の潜在意識に刷りこまれてしまうからです。

 

 そうなると、人は自らに主権があるということを認められなくなり、主権そのものを手放すことになってしまいます。

 

 それは何を意味するか、といったら、自分の思うとおり、望むとおりの人生を創り、歩むことは不可能なのだという諦め、諦念につながってしまうことを意味します。

 

 物事の全体や真相を把握できているのは、社会のほんの一部の人たちであり、その人々は単に権力、財力、地位、権能などを独占しているためにそれを可能にしているのであるという認識になります。

 

 でも、そうしたパワーの独占者が、心正しい人たちであるとはかぎりません。むしろ、正反対である、ということだけは、多くの人々が感づいてしまっていることなのです。

 

 これは、もっと恐ろしいことにつながってゆくことになります。すなわち、正義よりも悪が強い。正義は負け、悪が勝利するのだ、という思いこみです。あちら側にとって、こういう集合的なエレメンタルの形成が、とっても好都合であるのは、言うまでもないことです。

 

 

 だから、この問題にたいする唯一のアプローチとして、有り難いことには、アカシックレコードといわれる宇宙ライブラリーのアーカイブスに接続する道が残されているということになります。

 

 それこそはダスカロスの唱える自己超意識性へとつながるアチューンメント(シュタイナーなら超感覚的認識というでしょう)が必要な理由であると考えられます。

 

 

 

「このゆりの花は、形をもち、色をもち、香りをもって、あなたの中に存在し、そして同時に、あなたはその中に存在しているのです。『野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった』(新約、ルカによる福音書12:27)」

 

「私は、何にでもアチューンメントでき、それらと1つなれる。〝霊魂〟としての自分に気づいています。そして、自分を〝パーソナリティー〟として、どの様に振舞ったらよいか判ってきました」

 

「あなたのすべての愛をこめて、ゆりを世界に捧げましょう。平和と愛と相互理解が、地球の隅々まで広がりますようお祈りしましょう・・・ハートからハートへ、そして国から国へ・・・。」

 

 

◇参考記事