南京事件の手口は どうみても中国人だと思っていました。
台湾から日本軍が引き揚げたあとに やってきた中国人民解放軍の悪辣のかぎりが、南京事件と同じような印象です。

だいたい中国人でしょ、人肉食べたりするのは。日本人はそんなことしないでしょ。現在も農村部では 人肉食がひそかに行われているとかのウワサも


             
↓ こちらより転載  こちらでは写真多数
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm


「南京大虐殺」は
捏造(ねつぞう)だった
南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった

「南京大虐殺」とは?

 1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。
 この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。

 日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。

 南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
 日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。

 日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。

 しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。


 南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。

以下はその詳細です。
 
南京に戻ってきた住民

 南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。


 日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
 住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。
 また占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないでしょうから、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万~27万人程度だろう」と書いています。
 このように南京占領後、南京の人口は増えているのです

南京入城に際し、新聞記者たちも同行

 南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。

 アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。

 また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。

また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
 
それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず

 中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。

日本軍によって殺された民間人はわずかだった

 日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。

 そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。
 
そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。

 また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。

 また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。

 その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。

 しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。
 
もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。

 また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。

 兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。

 その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。
 このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。

岡村寧次大将の記録は?

 一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
 「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)

 しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。

軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち

 捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
 この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。

 多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
 たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。

また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
 その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。


 また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
 「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付)

 また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)。

 このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。

 もう少し中国兵の行動をみてみましょう。
 日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。

 一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
 二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。

 実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。

 「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)

 つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
 そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。

 そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。

 問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。

 その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。

捕虜は虐殺されなかった

 一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000~8000人の中国兵についての次の記述です。

 「この7000~8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)

 つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。

 けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000~8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。

 「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)
 また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。

 さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。

 また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。

 「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)

 さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。

虐殺はなかったとする証言

 当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
 たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)

 日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)

 東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)

 福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)

 歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)

 南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」

 第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」

日本兵による悪事の証言の信憑性

 ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。

 「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。

 また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)

 また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。

 また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。

市民・捕虜と日本兵の交流・温情

 南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。

「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。

その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)

「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。

 『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。

 ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。

 『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)(同p.190-192)

「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。

そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同)

 都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」

 南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 
 さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)

 また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。

南京大虐殺と南京事件を区別すべき

 以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
 とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。

 けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。

 もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。
 つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。

中国兵らによる悪事の数々

 南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。

「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』p.200)

 また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40~50名が逃走したあとでした。

梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188)

 アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。

中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。

 南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)

つづく




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なんと 昨今の歴史問題の発端は 日本人の偏向報道(特亜工作員だと思ってますが)
から始まったんです。

多くの人に知ってほしいですね。 拡散希望します。


コピーペーストで 御自分のブログに貼り付けるもよし

口コミで機会あるごとに この真実を伝えてください!


この世界的 冤罪を はらすのは みなさんの拡散による 日本国民の意識変換と

安倍総理を応援し 反日と戦う姿勢を世界に見せることです!






おさらい歴史問題は日本発H19 3 21
http://www.youtube.com/watch?v=awvE5zLfQf8&feature=youtu.be




歴史問題
1,南京事件
2,教科書
3,靖国神社
4,慰安婦



1,南京事件問題
今につながる南京問題の発端は
昭和46年8月 朝日新聞連載 本多勝一記者の「中国の旅」から
それまでは、中国でも取り上げられることはなかった。

中国の歴史教科書に「南京大虐殺」の記事が出てくるのは
1979年(昭和54年」から。
南京大虐殺記念館の建設は1985年(昭和60年)だった。


2,教科書問題

発端は昭和57年の教科書誤報事件

文部省記者クラブの日本テレビの記者が、世界史の教科書の検定で、
原稿に「侵略」とあったのを「進出」に書き替えさせられたと誤った報告をした。

それを各社が確認もせずに一斉に報道し、中韓両国の反発を招いた。

しかも事態ょ致命的に悪化させたのは、当時の鈴木善幸政権の対応だった。
当時の小川平二文部大臣が国会で「書替えの事実なし」と明確に答弁(同年7月)
したにもかかわらず、
宮沢喜一官房長官談話を発表し、教科書検定において中韓両国の主張に配慮することを表明。

その談話の実効化を図るべく検定基準に「近隣諸国条項」を追加して、両国の
干渉を恒常化し、制度化する受け皿を作ってしまった。

教科書問題は日本のマスコミ各社の誤報に端を発し、鈴木政権が対応を誤ったことで
長期にわたる国際問題になってしまった。


3,靖国神社問題

首相の靖国神社参拝が国際問題化したきっかけは?

昭和60年8月15日の中曽根康弘首相の参拝に対し 『朝日』の加藤千洋特派員
中国の抗議を引き出そうとしたとしか考えにくいような記事をしきりに流し、
さらに社会党の訪中団が中曽根政権の「危険性」を大いに吹聴したため、
8月27日になって初めて中国政府要人による参拝への非難がなされた。

これ以前、いわゆる「A級戦犯」が昭和53年秋の大祭で合祀されてからでも、
歴代首相がすでに20回参拝を繰り返し、その間、中国は明確な抗議をしていない。
中国の抗議には何の説得力もないのだ。

にもかかわらず、ここでの中曽根首相は、中国の胡耀邦総書記に配慮して
靖国参拝を取り止めてしまう。

吉田茂首相以降、戦後の歴代首相がほぼとぎれなく行って来た英霊への参拝が
ここで中断し、しかも中国に靖国問題という外交カードを手渡してしまったのだ。

靖国問題は『朝日』と社会党の連携プレーで中国の攻撃対象とされ、中曽根首相の
腰砕けによって長期にわたる厄介な外交カードに転化したのだ。


4,慰安婦問題

平成3年8月11日『朝日』の植村隆記者が不明瞭な捏造記事のスクープをおこない、

謝罪路線に走った宮沢喜一内閣で慰安婦の強制連行を立証する確かな根拠が
一切ないにもかかわらず、河野洋平官房長官談話(平成5年8月4日)で
強制を認めたことで、慰安婦問題は国際的に固定化してしまった。

平成8年には中学校歴史教科書会社で慰安婦の記事が登場。
しかし「新しい歴史教科書をつくる会」などの取り組みによって、
現行の中学歴史教科書で記事に取り上げているものはゼロになった。




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あるサイトでのある方の日記より転載します。
実名でしたが こちらで判断して一部伏せました。



沖縄に住んでいる友人か緊急メッセージ

作成者: 高■ 良■さん

S Yさんより

これも沖縄に住んでいる友人から頂きました
皆さん読んで下さい。

これも事実の事です
読んで下さい

私は昔、学校で沖縄県人は、大和民族でないような話を教えられしばらく信じてしまった人間です。
しかし、寒さ暑さ対策とサボリのため図書館でいろいろ書籍を読み、まず沖縄方言があくまで方言であると知り、さらに民族的にも日本人であることを知りました。その後、おっさんになって科学が進化しDNAで完全に日本人なのがわかると、
学校教育が完全に嘘なのに気づきました。
面倒なので、記憶を頼りに書くので違ってたら指摘ください。

まず、沖縄県民は、元々ほとんど九州から平安時代に渡ってきた人々です。
なぜ渡ったかというと、9世紀頃から旧・朝鮮の新羅が海賊行為を超える蛮行を繰り返し働き、日本軍が征伐に向かうとすぐ逃げる姑息な侵略を代が変わり現・朝鮮らしき高麗になってもトータル300年も繰り返しました。

この為、多くの農民など武士階級以外は、まともな生活が行えず、沖縄など離島に逃げてしまったのです。

その後、琉球王国を建国しますが、基本的に貿易中心、武力が嫌いだったのは、平民出身が多かったからだと思われます。

が、しかし黒船が来襲し、平和は消えました。

そして再び日本になり、太平洋戦争後は、よく調べると悲しい話ばかり・・・

アメリカが沖縄に執着していたのは、海戦の強い日本を封じるため、そしてアカになった虫が将来歯向かえないようにするため、ソ連が太平洋に出れないようにするため・・・

そのため、この重要な地域である沖縄をアメリカは日本本土以上に徹底的に洗脳しました。まず為替レートを1ドル=120円(本土でも360円)とし、本来貿易でしか成り立たない沖縄を完全に腑抜けにしました。
つまり真面目に働いて生産したものは、絶対他所では売れないようにしたのです。
これにより、米軍基地だよりの仕事しかなくなり、地主はアメリカに土地を貸すことで贅沢になり主に東京などに移り住み、これまた金漬けで腑抜けになりました。
更に教育では日狂組により、本土より更に自虐感を教えられる時間が長いためか、都道府県別のランクではいつも最低にされます。

しかし、十年以上前からあの虫が沖縄を狙っており大量のスパイを送り込んできて、さらに悲劇が始まっております。

もうとっくに虫は情報戦では日本に開戦をしており、帰化人を増やし、結果現在の知事を含め2代つづけての帰化中国人知事です。
しかも昨年この知事は上海で大々的に沖縄の土地を買うようセールスしたほど日本を蝕もうと画策しています。
当然、沖縄マスコミも完全虫の支配下。
沖縄含め日本人だけが詳しく知らないのが現状です。

今、尖閣を虫がやたらと欲しがってますが、実は沖縄本島が狙いです。
なぜなら、沖縄を盗れば尖閣も付録で付いてくるし、そこに眠る海底油田、メタンハイドレードもとり放題。
沖縄を保護する名目で独立させ、その後、自治区とし、民族浄化が始まります。

皆様、そろそろ沖縄の恐ろしい現状に注目しませんか?


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   ↓こちらの過去日記も合わせてごらんください。

「中国に狙われる沖縄  なんと知事は帰化した中国人 」

http://ameblo.jp/siitoruke/entry-11548794981.html





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Nullpoさんの日記から転載します。
http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=491325



在日特権ってなぁに?(基本)




基本は大事です、何度でも繰り返し世の中に広めましょう。

①通名制度の悪用(在日コリアンは年間数十回改名しても許可が降りる/在日コリアンは破産者でもOK,日本人は不可)
②在日コリアンは「他国籍と違い前科や犯罪者が親類縁者に居ても帰化可能」
③10年前までは「在日コリアンは通名の数だけマネーロンダリング用や脱税用口座をいくつでも所持できる(今でも新設は無理でも既存口座は潰されてない)
④在日コリアンを理由に違法に脱税や免税を密かに反日国と癒着してる公務員と暗躍し好き放題している。(公務員や官僚や議員がグルなのでなかなか犯罪が発覚しない)
⑤組織犯罪が大規模テロに等しい悪質さ。


在特会桜井誠会長 『三重住民税不正減額事件にみる在日特権の影』









※在日コリアンは犯罪者集団、反日テロリストなのを理論的に解りやすく解説してくれて居ます。


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この人が在特会会長の桜井さんか。

もっと こわもて を想像してましたが ぜんぜん恐そうじゃない。

おっしゃってることは すごくよくわかります。

ぜんぜんしりませんでした。コリアンだけが 他の在日外国人よりもものすごく特別扱いの優遇をされているなんて
一般市民はぜんぜん知りませんよね。
私も聞いておどろきました。

コリアンは犯罪者親族いてもすぐ帰化できるんです。

コリアンを一般外国人と同じ扱いにというのが 在特会の主張のようです。

反日韓国人をも他の親日外国人よりも特別に優遇するなんて 日本はどうかしています。
知ったらだれでも在特会の主張を支持すると思います。

ヘイトスピーチは 私的にはイヤですが・・・・
ヘイトスピーチする以前はどのマスコミも取り上げてくれなかったと聞くと
実際に暴力をふるうわけでなく、怒りの表現としての抗議運動だとわかれば
支持に変わりました。

日本全体が在特会のようなパフォーマンスをすることには反対ですが
一定の役割を担う一部の過激な存在としての在特会のことは支持します。
ほんとに御苦労さまだと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下 私の質問に答えてくださったNullpo さんのコメントです。




3: クニモニノラ
知らなかったです。あとでゆっくり拝見します。

そもそもコリアンだけがなぜに 特別扱いなのですか?

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4: Nullpo
>>3 クニモニノラさん

在日コリアンだけが特別扱いなのは「日韓条約」による弊害です。
尚、その不平等条約を何故日本が受け入れたかと言うと、日本が武装解除していた時代に竹島周辺の4,000名近くの拉致被害者(韓国に拉致された漁民)を救う為に仕方なく不利な条件を受け入れた為です。

その不利な条約の中に「在日特権」が存在し、他国籍と違い前科や犯罪者やテロリストなどでも入国や滞在や帰化が出来きたり「強制追放されない」と言う目に見えた外人問題になっても居ます。(反日問題とは別の問題)

尚、一応は建前で不平等条約ながらも7年以上の実刑判決を受けた在日韓国人は追放処分出来るとされてますが「殺人・強盗・強姦」など重犯罪を犯した凶悪犯でさえもその適用をされた罪人は一人も存在してません。(そうでなくても意図的に実刑7年未満の減刑活動や死刑制度廃止の極左活動が盛ん)


※日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(在日韓国人の法的地位協定)

1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに韓国軍は、このラインを越えたことを理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留した。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。

1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ラインは両国間で正式に廃止された。またその際「竹島問題は紛争処理事項である」と記されたが、条約を結ぶために日韓双方が事実上棚上げした問題の一つであり、その後韓国は「竹島の領有問題は紛争処理事項でない」という立場を採っている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

頑張れ日本!さんのコメント


在日特権のまとめ
・働かず年600万が貰えて遊んで暮らせる優雅な生活
       ↑
月40万以上もらえるんですよ。一部上場の企業で働き、恵まれているといわれている団塊のお爺ちゃんたちでさえ、これほど恵まれていませんよ!断言しておきます。
・犯罪犯しても実名でません
・税金は納めません
・相続税も払いません
・医療、水道、色々無料←色々の内容には興味あり
・住宅費5万円程度なら全額支給
・試験の免除も各種ご用意
・試験の免除も各種ご用意
・公務員にも就職できます
・パチンコ産業ほぼ独占

・人口比わずか0.5%、64万人の在日朝鮮人の46万人が無職
・年計2兆3000億円が在日朝鮮人の生活保護費として使われている

在日の彼らは、強制連行されたといっていますよね。だったら、半島にお帰りになっていただいたらいいだけの話です。帰らない大きな理由の一つとして、半島では、徴兵義務があることがあげられます。

日本でのうのうと在日特権で遊んで暮らせる在日は、半島に帰れば徴兵義務があるのですからね。

私は、明確な嫌韓、脱韓流ですが、ひとつだけ、韓国を評価しています。それは、韓国では、パチンコ禁止なのです。日本も、ここだけは、韓国を見習ってもらいたいと思っています。
・公務員にも就職できます
・パチンコ産業ほぼ独占:本当は違法だけど文句いわせない
・こんなに特権階級だから帰化できるけどしません




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みなさん 知らない方がほとんどだと思います。

コピペして 拡散しましょう!


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auやdocomoが 障害報告が多くなってきたのがおかしいと思いませんか?
それに引き換えソフトバンクが一番 つながるとスマップで宣伝。
孫は ソフトバンク顧客データを韓国で管理する予定だといいます。
日本の法治が及ばない韓国で・・・つつぬけじゃないですか?
Yahooジャパンの顧客ID流出しましたね。流出の練習か?


ソフトバンクCMは、とんだ日本人差別CMですね。
大きな犬の肛門からスマップが飛び出してくるCMもありましたね。
韓流時代劇で知ってました。
犬の糞という意味で 差別するためにケトン(犬の糞)と名付けられた英雄時代劇見ましたよ。最大の差別用語なんです。

最近は韓流ドラマまったくみません。どれもこれも、恨みはらす復讐ドラマばっかりで辟易しますから。
「恨」思想は気持ち悪いです。 そうそうケトンで思いだしましたが、トンスルというお酒が韓国にはあるそうですね。
トン=人糞   お食事中の方 すみません。 人糞や犬糞でつくったお酒があるそうです。
うぅぅ吐きそう。


 ソフトバンクのiPhone使ってます- -:
ポケットwifiだけは他社に変更しました。iPhoneがつぶれるまでいましばらく使います。
他社携帯も使ってますし。
つぶれたら完全にソフトバンクから手を引く予定です。



以下 ネットで拾ってきました。 拡散推奨されてます。




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非現実的な家族構成のSoftBankCMの話に戻りますが、お父さんが白い犬で、お母さんは日本人、お兄さんは黒人で、娘は日本人、これはどういう意図があるのか?

まさにこれは、人種差別そのものの糞CMなのです!

「犬の子」というのは韓国で最大の侮蔑の意味を持ち、人として最低の存在という意味を表します。韓国では「ケッセキ」「ケセッキー」と呼ばれている侮辱用語らしい。

韓国では人種差別は当たり前なので、黒人は下に見られている。しかも韓国では、身体障害者を真似た踊り「病身舞」が伝統文化にもなっている。日本の朝鮮学校で子供がふざけながら病身舞を踊ってる動画をYouTubeで見た事があります。

つまり、あの尋常じゃない家族構成は、最低の存在の犬の子で、韓国では下に見られている黒人を兄に持つ日本人の妹目線でCMが構成されているのです!


ソフトバンク、すべてのコンピュータのデータを韓国通信大手KTに保管する計画/韓国KT、CMで竹島侵略を推進
http://johokosa.blog98.fc2.com/blog-entry-194.html



【原発】孫正義、韓国で謝罪「日本は犯罪者になった...」

http://www.youtube.com/watch?v=pDIBr3xi2CY




ソフトバンク 孫正義 の犯した8つの罪
http://www.youtube.com/watch?v=D2BVT3qpITs





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