つづき
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
黄 私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」
日本兵の犯罪は少数あった
つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。
南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』p。122-124)
大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。
にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。
「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正)
つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。
では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。
しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。
つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。
安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。
実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275)
このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。
この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。
『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。
「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。
馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277)
このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。
隠れていた大勢の中国兵ら
いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。
「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店)
つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」
このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。
これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities)
松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正)
南京国際委員会が提出した被害届は、ほとんど中国人からの伝聞
南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、
「事例5: 12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」
「事例10: 12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」
こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。
まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。
また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。
強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。
「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。
「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。
その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。
時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計)
このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。
ジョン・ラーベのリポート
この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
またラーベは、同じ日に、
「日本兵たちは、市内をめぐり、10~20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。
「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)
このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。
強姦事件の真相
つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「~しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
両教授はこうも書いています。
「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。
マギー・フィルムの真相
日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万~5万人虐殺も見ていないのです。
またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。
「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7~8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」
この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。
マイナー・ベイツの虚偽報告
マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。
ベイツによるすりかえ
マイナー・ベイツはまた、
「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7~8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)
スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」
最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月~1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。
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まったく ウソつきで卑劣な中国ですね。
日本人は 優しくて親切で思いやりがあります。
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