■「歴史的経緯のある特別な永住外国人について、当然これは参政権を与えるべき」
■「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」 →「チベット問題は政府の問題、関西は一丸となって中国との結びつきを深めていく」
■「光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うべきだ」 →「僕は懲戒請求していない、事務所の運営で忙しく、公費も出ないので」
■「府知事選出馬は20000%無い」→「島田紳助氏の説得で発言は撤回、出馬する」
■「許永中や消費者金融の顧問弁護士だった」→「今後は慎重に行動する」
■「日本は核配備すべき」→「あれは話芸」
■「学校の校庭を芝生化する」→「府の権限とは関係ないことだった」
■「府債発行はゼロの方向」→「勉強不足だった、府債160億発行する」
■「私は365日24時間公人だ」→「私は365日24時間私人でもある」
■「職員給与カット、人件費を削減する」→「頑張ってほしいという表現、修正する」
■「同和対策予算はゼロにする」→「同和行政は適切だ、特別扱いはしていない」
■「共産党は多数派になってから意見すべき」→「謝罪し、議事録削除を要請する」
■「中堅職員を自衛隊に体験入隊させる」→「自衛隊研修はしない、撤回する」
■「知事として教育委員会に命じる」→「無知で完全に間違いだった、撤回する」
■「小学校の35人学級見直す」→「机上の空論だった。反省し撤回する」
■「府立高の学区制を撤廃する」→「世間知らずを痛感した、撤回する」

■「テスト結果非公開なら予算つけない」→「言い過ぎた、よく考え直す」
■「自民公明の推薦支持に全身全霊で応える」→「民主党に感銘を覚え応援したい」
■「原発は総力で止めにかかる」→「再稼働非常にありがたい、関西は助かった」
■「企業・団体献金の禁止」→ 「企業献金受けとる、選挙はただではやれない」→「やはり禁止、ただしパーティ券は除く」
■「政治家は普通預金も含め全てオープンにすべき」→「 僕の普通預金は勘弁してもらいたい」
■「従軍慰安婦の証拠を出せ」→「慰安婦問題をどこまで認めるか韓国側と議論し、竹島の共同管理に持っていく」
■「体罰は必要」→「考え方を改め反省する」→「生活指導の体罰は議論すべき」


橋下徹の二枚舌とその危険性part1:
http://youtu.be/RpzBIsJw_YE
@YouTubeさんから



橋下徹の二枚舌とその危険性part2:
http://youtu.be/2zNKB2f_v9M
@YouTubeさんから



橋下徹の二枚舌とその危険性part3:
http://youtu.be/GFky6J8mYW0
@YouTubeさんから


ペテン師橋下の源流

「橋下は破れた革ジャンをタダ同然で仕入れて1着3万円とか5万円で売って大学を卒業したと言っていた。
『破れたやつを売ったらまずいやろ』と言うと『どこが悪いんですか。気付かずに買うのはお人よしや』と」

橋下と司法修習同期の兵庫県明石市の泉房穂市長談


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5月に住民投票の大阪都構想は府民は関係なく 大阪市民対象の住民投票です。

【藤井聡】大阪都構想:知っていてほしい7つの事実
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/01/27/fijii/


【藤井聡】大阪都構想(2):「大阪市民に,自分たちの市を解体して5つに分割してもよいですか?」を問う投票
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/02/03/fujii-129/

藤井聡ドットコム  橋下市長「大阪都構想」問題について~
 権力による言論封殺には屈しません
http://satoshi-fujii.com/


橋下徹vs在特会・桜井誠 【全】10/20
https://www.youtube.com/watch?v=ACRxHAC-tyg


自分が 在特会と話し合いに応じるからいつでも来てくれと橋下の方から言ったにもかかわらず

なかなか日程も決めず、本日の話し合いに遅れてくる橋下

場所は市役所なんだから どうして遅れる必要がある?
しかも橋下が指定した日時に

最初から失礼で無礼な橋下


やはり『同和と暴力団』の本にあるように、橋下父は同和になりすました在日だから

橋下は特別永住者の味方なのです。

ヘイトの定義も説明せずに 桜井さんを罵るだけ。

もともと 橋下は在日のサラ金 シティズの弁護士でしたし

師匠弁護士の樺山氏からも脅迫で訴えられている 暴力団を使う在日弁護士ですからねー

今も 橋下個人での弁護士は府議会で追及されて辞めた

売春組合である 飛田新地料理組合の顧問を橋下総合弁護士事務所で法人としてやっています。

こんなヤツが市長やっているんです。

大阪府を過去最大の起債団体にしたのは橋下ですしペテン師です。

韓国人の精神が出てしまった対談ですね

対談というより 罵って逃げただけの橋下でした。

勝手に大阪を移民特区にしたし

日本人のマインドでは無いのはハッキリしています。

舛添と同じ 韓国ソウル詣でもしてきていますし

中共のコキントウを大阪に迎えてヘラヘラごまする動画もあります。

橋下なんか 早く 大阪から消えてほしいです!

【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

 鈴木史朗(フリーアナウンサー)
 1938年、京都生まれ。62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』(小学館文庫)。

〈「もう一度南京へ」〉

 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。

 さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。

 「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

 他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。

  「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。

 残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。

 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。



 引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。

 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

 天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

〈中国人女性にモテた父〉
 
 父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。

 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。

 「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

 あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。

 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。

 社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。

 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

 映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。

 「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。


第19170号 國民新聞 平成23年12月25日(日曜日)

帰化した国会議員

日本会議埼玉支部の吉田滋相談役が最近入手した
「帰化人国会議員一覧」
によると、民主党所属議員(元職を含む)が最多だった。

民主党には小沢一郎(実父が済州島出身、実母は在日朝鮮人)、菅直人(実母が済州島出身)

土井たか子(本名・李高順、昭和三十三年十月二十六日帰化)、千葉景子、近藤昭一。

岩國哲人、土肥隆一、金田誠一、岡崎トミ子、簗瀬進、山下八洲夫、中川正春、横路孝弘、神本美恵子、鉢呂吉雄、今野東、松野信夫、平岡秀夫、赤松広隆、小宮山洋子、鳩山由紀夫(実父威一朗が結婚前に韓国人に生ませた子、妻の幸は在日韓国人)、横光克彦、松岡徹、水岡俊一、群和子、犬塚直史、佐藤泰介、谷博之、藤田幸久、増子輝彦、江田五月、高木義明、中嶋良充、円より子、中村哲治、藤谷光信、室井邦彦、横峯良郎、白真勲、奥村展三、小沢鋭仁、川端達夫、佐々木隆博、末松義規、西村智奈美、細川律夫、家西悟、小川敏夫、津田弥太郎、ツルネン・マルティ、那谷屋正義、内藤正光、福山哲郎、峰崎直樹、郡司彰、小川勝也諸氏ら五十六人。

社民党は福島瑞穂(本名・趙春花、昭和六十一年二月十五日帰化)辻元清美、保坂展人、
照屋寛徳、日森文尋、近藤正道、又市征治。

公明党は東順治、上田勇。

自民党は山崎拓、河野太郎、加藤紘一、衛藤征士郎、河村建夫、中川秀直、犬村秀章、野田毅、太田誠一、二階俊博、大野功統、馳浩。

本紙に一覧表を提供した吉田滋氏は
「この資料の真実性はほぼ間違いない。

火のない所に煙立たずだ」
と述べている。
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帰化議員リスト
どんどん 拡散してください!!!



コイツが次の売国奴議員か?勝谷誠彦も絶賛したアノ議員が中国に失言!?まさか安倍首相への復讐か!?
https://www.youtube.com/watch?v=ul8KDSUCAJ4

よくわからんが 怪しい~


南京大虐殺記念館は社会党田辺誠が造った H19.1.29
https://www.youtube.com/watch?v=Jmv_aJGjnZM


http://d.hatena.ne.jp/k1491n/20131218/1387340795
こちら↑より転載↓

◇金丸晋と田邉誠が何故わざわざ中国や朝鮮半島へ出向きお詫び行脚をしたのか、それは日本がバブル景気で、国庫に溜まったあぶく銭を減らすのが目的でした。戦前、戦中日本が中国や韓国、北朝鮮などに迷惑をかけたとしてお詫びの意味で、国際開発援助(ODA)金を気前よく大判振る舞いするためだったのです。

◇何故そんなことをしたのかと云えば、キックバック(割戻し)を取るためだったのです。金丸晋は自民党の国体委員長などの要職にあり、派閥の領袖でもありましたから、子分たちを養うためにカネが必要であり、田邉もまた委員長として党運営にはカネは必要だったのでしょう。

与野党の実力者がそろって国富をばら撒きキックバックを取れば共犯ですから、お互いに国会で不正を追及されることもありません。相手国もそれは心得ていますから援助額の大きさによってキックバックの額も決まっていたと言う話も聞きます。
因みにキックバックは5%~10%が相場だったと聞いていますが、100億円の援助額なら、5億~10億円が後日どこぞの外国口座に振り込まれているという段取りになっていたのでしょう。猪瀬直樹の5000万なんてしょぼいもんです。


南京大虐殺紀念館の建設要請
浜田幸一によると田邊が1980年代に南京市を訪れた際に南京大虐殺紀念館を建設するよう求めたという。浜田はこの要請や総評から南京市への3000万円の寄付によって同紀念館が建設されたと語っている[3]。
◇田邉と金丸という与野党の実力者は、本来ならば対立関係にある筈ですが、なんとお仲間で大の仲良しであったそうで、お互いに「マムシとナマズ」と呼び合っていたそうです。いかにも「マムシとナマズ」と言う感じですが、本当は「同じ穴のムジナ」です。
◇金丸晋はのちに不正蓄財で失脚、家宅捜査では金庫から莫大な現金と金の延べ棒やクルーガ金貨などが発見されたとのこと。これは北朝鮮の金日成から贈られたものだそうで、金貨の通し番号は、オーム真理教の教祖麻原彰晃が隠し持っていた者と隣り合っていたと言われています。それにしても日本の政治家には何と売国奴が多いのでしょう。


必見サイト↓
http://deepfuchsiapigment.myartsonline.com/brd307-01.html
「 30万人虐殺 」説を最初に持ち込んだ
  田辺誠元社会党委員長
   ( 現民主党群馬県連常任顧問 )
 『 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 』という長ったらしい名前のメモリアル( いわゆる「 南京虐殺記念館 」 )が支那の南京郊外の江東門近くにある。 サヨクの聖地であり、如何わしく、おぞましい場所である。
 あの『 南京大虐殺 』という旧・日本軍の蛮行を、子々孫々にまで伝えるための記念館だという。
 あまり知られていないが、これは当時の日本社会党、今の社民党の田辺誠が提案し、わざわざ二度も支那に頼みこんで「 総評 」が建設費を出し建てたものだ。
 このような自国民を陥れるものをわざわざ作るとは社会党というマゾ政党は狂っているとしかいいようがない。 また、この建物に30万人と言う被害者数を記しているが、この数字について支那側は、「 政治的数字だ 」と返答した。 つまり、「 30万人 」と言う数字は「 歴史的事実 」では無く、「 政治的数字 」であると、支那が自ら認めている訳だ。

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現在も 中国利権で売国する政治家はたくさんいますね。

民主党 社民党 共産党ほとんどですが(笑)

自民党内部にも売国親中利権むさぼり議員はいます。

古賀誠  二階 河村 野中 鳩山兄とかww 
中国緑化事業で野中など親類送り込んで 緑化利権一手に握ってます。
実際は逆効果の緑化で ウイグル人の土地取り上げたり あくどいです。
詳しい売国の経緯はこちら
http://jyaanowww.wiki.fc2.com/wiki/20140321

帰化議員リスト
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n130971

売国議員リスト
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/119.html