3カ月ごと通院になって

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私の最近の病状ですが、がんセンターへの2ヶ月ごとの通院がやっと3ヶ月ごとになりました。


 体のだるさはたまにあるけれど、今はかなり元気です。


 気になるところとしては、抗がん剤の後遺症なのでしょうか?

 爪に縦線が入っているのです。


 それも小さいのが何本も、両手の人差し指と親指に。

 まさか皮膚ガンじゃないよね?と心配になったので調べたところ、皮膚ガンの場合の縦線の入り方とは違う様子。


 あまりに酷くなったら病院に行こうかと思っているんだけど、微妙な感じなんだよね。

 検索して一番近い症状が、『爪の老化』。


 やっぱり抗がん剤をやった事で爪の老化が早まったのかなぁ。



 ガンは手術で取っても、目に見えない大きさの物が残っていてそれが成長して再発として現れる事があります。

 私も子宮だけじゃなく、卵管にも転移していたのでそういった再発の可能性はアリなのでまだまだ気が抜けません。


 ガンって最初に告知された時は、もちろんショックなんだけど再発時は『今度こそヤバイかも』と更にショックなんだろうなと思う。


 最初に使った抗がん剤は使えないかもだし、治療の選択肢も減るし何より、再発して亡くなってしまった芸能人の方のニュースも見るしね。


 まずは寛解と言われる5年を目指さないといけない。

 今は3年目。


 この後が一番、気を抜いて忘れちゃう頃なのかもしれない。


 まぁ気をつけるといったって何を?ともなるんだけど。


 一般的には食生活を、と聞くけれどガンって食生活だけじゃないし食生活を気にして健康的という食事を採ってきた人でもガンになる事があるし、分からない。

 気をつけないよりは、気をつけた方がいいんだろうけどね。


 抗酸化作用という事で、にんじんジュースがガンでは有名だけど私はガンになってから一度も試していない。

 かなり前にも書いたけれど、やっている事としたらヤクルトとかヨーグルトなどの乳酸菌かな。



 というわけで初めてガンと診断されてから2年は再発しないで経過できたから良かったよ。

 保険だって2年経過したら、再発した時にまた一時金が出るしね。


 そうよ、またもや保険のおばちゃんから言わせてもらうと、ガンの診断一時金は再発でも無制限で出るタイプのものを選んだ方がいいよ。


 ガンになったらもう保険入れない事が多いからね。



 このエッセイはほぼリアルタイムで書いてきているので、入院時も病院のベッドで書いてきたものです。なので治療期間が開いてきた今は、リアルタイムの内容は減ってきていますがこれからもガンや病気に関する事、そしてもちろん私の病状について書いていきます。


愚痴らせてください

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母が亡くなって自宅に帰ってきてから、夫の母と妹さんから香典を夫宛に頂いた。

うちは親戚づきあいも無いし、お金も無いしという事で母は一般的なお葬式をせずに火葬式という
ほぼ火葬だけをするやり方で送った事は長々と書いてきたけれど

その火葬式に、遠方だという事もあり義母も義妹も来ていない。
香典は現金書留で送ってくださったのだ。

私宛でも、母の夫である私の義父宛でもなく、香典は私の夫宛だった。

まずそこからしてハテナではあったけれど、夫から父に渡してくれという事なのだろうと、その時はそれ以上気にしない事にした。

そうしたら、さきほど夫から義母宛に義母と義妹に、五千円づつのカタログギフトの香典返しをネットで手配してほしいとメールがあったのだ。

夫はそういう事に気がきく方では無い。
それどころかそういう風習すら、よく分かってないはず。

という事は、義母もしくは義妹から香典返しの請求があったのだと思う。


それを感じた私はとてもモヤモヤした。


夫の父が亡くなった時に、私の会社と上司から香典を預かって出した時には全くお返しは無かったのだ。家族葬で小さいものだったし、香典返しは身内には渡されないようだったから。

そして夫と私とでお盆に帰省するたびに一万円はお仏前のお金をそしてプラスでお菓子を持って行っている。

それだってもちろん、お返しをもらった事は無い。
息子だしそれでいい。

ついさっきまではそれでよかった。
けどさこっちももらった事ないのに、そっちは要求するんだというのが、それも夫に遠回しに香典返しを要求された事が何だか気分が良く無い。

まだ49日だって過ぎていないのだ。
一般的にだって香典返しって49日過ぎてからでは?


今回母が亡くなって、父が精神的なショックが大きくて(突然だったので)1人で今までの家に住めないと言い出した。

そのために私は夫に相談して、私たちの住んでいるところに遠方ではあるけれど父を連れて帰ってきたのだ。
一先ず、1ヶ月ほどと考えて。

そうやって父を連れて自宅に帰ってきた翌日辺りに義母から電話があった時も、慰めの言葉だと思うんだけど

「誰もが通る道だからね」

と言われて、今それ言う?と驚き、自分でも意外なほど傷ついた。

それプラス、夫から聞いていたのだろう(私はまだ報告していなかった)父を私たちに家に連れてきた事に対する嫌味なのか、しばらくはこっち(夫の実家)にくるな、という事なのか

「49日までは家をあけたらダメだからね」

と仰ったのだ。


私は一人っ子で、実家は岐阜で住んでいるのは埼玉で、だから簡単には実家に帰れない。
だからそんな弱気になっている父を1人置いて岐阜を去れなかった。
これを快く承諾してくれた夫には、とても感謝しているけれど私はかなり非常識な事をしたのだろうか……。

その後、父が義母に電話した時には、私たち夫婦には子どもがいないし、そこで一緒に過ごせばいい。というような事を話していたと言う。

どういう事?とよく分からない。

お葬式をした場合は、きてくださった直後に香典返しをするものだろうけれど、しなかったし、こなかったのだから49日過ぎてからでも不義理では無いと勝手に考えていたんだけど、そんなにダメだったかなぁ?まだ1ヶ月も経っていないんだよ?

まぁ夫から要請があったから、夫の名前ですぐにカタログギフトの香典返しを手配したけれどね。
うーん。

母の日嫌い

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 結局私は一度も泣かなかった。

 実父も亡くなっているのだから、これで天涯孤独になったわけだけど心細さもさほど無い。
 それは夫と義父がいてくれるからだろう。

 けれど気持ちが落ち着いて、考え事をしたら後悔の念は出てくる。

 もっと母にああもしてあげれば良かった、こうもしてあげれば良かったと。

 私が娘として母に対して無感情だとしても、だからと言って親孝行をしたい気持ちが皆無なわけではないし、気持ちを他人から見て分かりやすく白黒ハッキリしているわけでは無い。


 母と言えばもうすぐ母の日だが、私にとって母の日というものは不快な響きのあるものでしか無い。

 それは子どもの頃より母にプレゼントをあげ続けて、それに対してのダメ出しをされ続けたのだが、大人になる前に「もう要らない」宣言をされたにも関わらず、母の日がくるたびに、よその娘さんを引き合いに出して私が何もくれない親不孝者だと言われ続けたからだ。

 母が欲しがるものをあげれなかった私が悪いのだろう。
 確かにそうなのだが、大人になってからならまだしも園児や小学校低学年の子どもだった私にはそこまでの配慮は出来なかった。

 私の実父は、私があげるものならば何でも母は嬉しいはずだと幼い私に言うので、まだ純真だった頃の私はそれを信じてしまっていたのだ。

「相手の欲しくない物を勝手に買ってきてあげてはいけない」

 と小学生の頃に教わったのは良かったと思う。

 けれどじゃあ欲しい物をあげたいと思い聞くと、要らないと答える。

 子どもの私は、母の欲しいものというのはお金とか私がまだ買ってあげられないような物なのだなという発想にまで行かず、『私があげるものなんて要らないんだな』と解釈したのだ。

 だから世の中で母の日がうるさく、あちこちで言われても私は聞こえてないフリをして5月の半ば過ぎまでを毎年耐えたのだった。


 そんな母の日が今年も、チラホラと聞こえるようになってきた。
 母が亡くなっても、私の中の母の日に対する不快感は消えない。

 それどころか、夫のお母さんに毎年キッチリと贈れなかった事で更にチクリと痛く苦しい行事になっている。

 夫のお母さんには結婚した年にプレゼントを贈ったのだが、贈らなくていいと言われて、子どもの頃の母から言われた言葉がフラッシュバックして素直に聞いてしまい、その後何年か贈らなかった。

 だからと言って義母に不義理を働いた事に対する言い訳にならないと言われるのは分かっているからこそ自分を責めずにはいられない。

 だからこそ数年後に、また要らないと言われてもいいと思い贈った。

 そういう事もあるから、余計に母の日は辛い。

お骨

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 火葬場に戻って、骨になった母に会う。
 あまり骨は形は残っていなかった。祖母や夫のお父さんなど今までにお骨を拾う事に参加した事は数回あるが、こんなにも骨は無いというか分からないものなのだろうかと思うほどだった。

 義父が母の骨の状態を質問したが、足以外は特に脆かったというわけでも無さそうだ。

 年配の人でもギョッとなるほど、骨が丈夫で残ってる人もいると聞く。
 だから母もそうだったら、義父が大丈夫だろうかと心配していたが杞憂だったようだ。

 小さな骨壷だし、本当に簡易的に私たちで交代で箸でつかんで収めた。

 この箸なんだけど当たり前なのかもしれないけど、火葬場が用意するものじゃなくて葬儀社が用意するものなんだね。

 葬儀社を出る時に、色々と入っている袋を係りの人に渡された。
 それは結構な大きな袋でふた袋あり、遺影や仏壇などに置く道具などと一緒にその箸も入っていた。

 火葬場の係りの人に言われるまで、その事もよく分かっていなかった。

 ところで今回、義父は喪主で私は代表と呼ばれた。
 うちは少ないから代表と言われたら「あ、私か」とすぐ分かるが、家族が多いところは誰ってなるのかもね。長男なの?それとも歳が上ならお姉さんなの?とかね。


 というわけで色々勉強になった今回の、母を送るのはこれで一通り終わった。

 終わったは終わった。けれど、これからがまだまだ大変なのだと思う。

 各種手続きはもちろん、義父の精神的フォローをしていかないといけない。

 私がお金がたくさんあって、仕事もしていないのだったらいくでも岐阜にいてフォローすれば良いのだろう。

 けれどお金も無いし、仕事だってある。
 住んでいる場所が離れているから、ちょっと様子を見に行くというわけにはいかない。

 義父は足腰はしっかりしているし、料理以外の家事はここ数年、母に代わってやってきたのでそういった事は問題ない。

 それでも精神面はとても注意しなければいけない。
 見るからに落ち込んでいると誰でも分かる状態で無いからこそ、「大丈夫そうだ」と思ってしまいがちだから。


 母が倒れてからの『出来事』としては主なところではこんな感じだが、次は精神的な事を書いてみたいと思う。

 ※ちなみにこの出来事はここ2週間ほど前の事です。
 お花を入れてあげた後、棺を火葬場に運ぶために移動になった。
 昔は棺に釘を打ったそうだけど、今はそれをやらないという。

 霊柩車には義父が乗り、その後には私と夫の車が続き、Aくん両親、お隣さんという順番でついて行く事になった。


 Aくんのお母さんは近々、母をお花見に連れて行こうと思っていた(車が無いので連れて行こうとしていたという意味)と昨日、一昨日と話していた。

 火葬場へ向かう道中には、綺麗な桜並木があり「桜見れたね」と火葬場で合流したAくんお母さんは言っていた。
 その言葉はさすがの私にもくるものがあった。

 ここで最後のお別れをした後、Aくん両親とお隣さんは帰っていった。

 骨になった後のお骨拾いは義父と私と夫の3人だけでやる事になった。


 ちょうど時間はお昼どきだったので、待ち時間に近くに食べに行くために一旦私たちもその場を離れた。

 義父は落ち着いて考えさせると思い詰めるが、普段の何気ない生活をさせておいたり、忙しくしていると思い詰めずに済むようだ。

 火葬場からきたというのに、ただランチを食べに行くかのごとく平気な姿に少しホッとする。とはいえ義父は本当に繊細なのだ。

 前に義父自身がガンかもしれないと思いつめていた時も、ガンじゃなかったというだけで半べそかきながら電話してきた。

 今回も母の姿が可哀想で見れないと、病室にもほとんど入ってこなかった。

 亡くなった後も、何度も「オレは自分の性格が嫌になる。もっと優しくしてやれば良かった」と後悔の言葉を言いながら自分を責めていた。

 そういう義父だが、優しい夫ランキングなるものがあったとするならば、上位に入るだろうくらい十分優しいのだ。
 母も生前、何度か私に話していた。「ターロ(義父)は何でもやってくれる。ターロがいないと私は生きていけない」と。

 それでも自分が優しく無かったと責めている。
 Aくんお母さんにも「こんな優しい旦那さんいないわ」と言われていたが、義父自身は謙遜ではなく本気で否定していた。
 若い頃には色々あったからと。そりゃあ色々の中には私の事もあるよね。

 そして他所に想い人がいたのも知ってる。義父自身から何年も前に聞いたから。
 けどさこの晩年をこうやって側にいて、色々優しくしてきたわけじゃない。
 しかも本人(母)が不満に思っていないのだからいいじゃないか。

 バツ2だからと、母と一緒に暮らしてから10年ぐらい籍を入れなかった義父。
 けれど結果的には、バツ2だろうと母とは籍を入れなかった期間も合わせたら25年も一緒にいたのだ。

 途中で何かあろうとも、ここまで長く一緒に過ごせてきたというのが答えなんじゃ無いだろうか。