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負け戦「最後が重要」 

馬場信輔 60 あおぞら銀行社長

 

 <米国撤退を経験>

  •   私は最後の「日本不動産銀行」の入行者です。

      入行した1977年の10月、行名は「日本債券信用銀行」に変わりました。成長産業への融資などに積極的で、若い人が伸び伸びと働ける行風でした。

      ところが、国内の不良債権問題が深刻化し、経営を直撃しました。米ロサンゼルス支店の副支店長を務めて2年半が過ぎた97年4月、本店が海外業務からの撤退を発表しました。

      「君たちもさっさと帰る用意をした方がいいよ」と言い残して、支店長が最初に帰国してしまいました。本店の人間も経験がないため撤退がどれだけ難しいか分からず、副支店長を残しておけばいいと判断したのでしょう。

      撤退は情けないことですが、「負け戦はしんがりが一番重要」と心を決めました。2000億円に及ぶ貸し出しを本店や他銀行の融資に切り替えてもらうなど、なるべくお客さんに迷惑をかけないよう走り回りました。

      現地採用の職員たち約40人には「残念だけどもう雇えない」と伝えました。涙を流す人もいましたが、「最後までプロのプライドを示してくれ」と訴えました。よく分かってくれて、やめるその日までしっかり勤めてくれました。知り合いがいる日系企業や他の銀行を再就職先として紹介しましたが、すべての人の面倒をみることができたわけではありませんでした。

      私が東京に戻ったのは撤退表明から1年後。間もなく日債銀は破綻しました。

     <外国人経営陣の下で>

      米系投資ファンドが筆頭株主になった直後、米国人の新しい会長に呼ばれました。「はじめまして」とあいさつをしようと思ったら、「この融資を明日中に回収しろ」と怒っているのです。

      どういう仕組みで担保を取っているかを細かく説明したら、「なんだ、思っていたよりまともだ」と納得してくれました。うまく説明できなかったらクビになるところでした。

      別の米国人幹部からは、「お前なんかクビだ」「左遷だ」と言われました。が、あまりに何回も言われて慣れてしまいました。

      新しい経営陣は大口に融資が偏っていたのが問題とみて、是正が必要だと考えていました。それは正しいのですが、強引に進めていこうとする。やむを得ずお客さんに融資の返済をお願いすると「あおぞらは(経営者が)外国人になって信用できなくなった」と言われ、板挟みになった仲間も少なくありませんでした。

      苦労ではありましたが、外国人がどんな発想で仕事をするのかを学びました。

      今年からアジアの学生に就業体験で来てもらっていますが、「成長したい」「世の中に貢献したい」という青雲の志を日本人以上に持っていると感じます。こうした「アジアン・スピリッツ」も取り込んでいきたいです。「亜魂洋魂」で世の中の役に立つ銀行になり、公的資金で助けてもらったお返しをしなくてはいけないと思っています。(聞き手 松原知基)

     

      《メモ》 1977年東大経卒、日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行、現あおぞら銀行)入行。米国人のブライアン・プリンス氏の後任として、2012年9月に社長に就任した。

      14年3月期連結決算で、本業のもうけを示す業務純益は412億円、税引き後利益は423億円。旧日債銀時代に公的資金の投入、一時国有化を経て、01年に「あおぞら銀行」に行名を変更した。