ご訪問ありがとうございますブルーハーツ

子宮頸がん1b2期から
再発転移を繰り返し
余命3ヶ月生存率0%から
生還した月日を
書き綴っています。

  




【1999年1月】

母は相当心臓にダメージがきていたらしく

手術はとても困難になるとの説明を受けました。


手術まで毎日大きなお腹で病院に通い

母の顔を見て帰る。


実家と病院の往復を弁当を持って通い

実家に帰ると自然に涙が出る。


そんな日々を過ごし手術の日を迎えました。


父も単身赴任先から戻り

手術の終わりを待つ。


予定より大幅に時間がかかる中で

不安を隠すように父とたわいもない会話


家族の待合室で待っていたので

ドラマのように手術中のランプが消えるような光景はなく


看護師さんが「終わりました

と告げにきました。


手術室から出てきた母は

良くドラマなどである手で押す風船みたいなもので

口から空気を入れてもらっていました。


死人のように真っ白な顔。


どうなってるか分からず不安がよぎり

私と父は傍で見ているだけでした。


看護師さんから

体温を戻してるから、時期に戻ります

という言葉に少し安心。


ICUへと移動して

更に体温と血圧を戻すために

電気毛布、体を摩る光景を

遠目で見ていたけど

看護師さんが「声をかけてください

と言ってくれて

祈るような気持ちで

お母さん、お母さん、、、

と声をかけ続けました。


体も摩りました。


母の意識が徐々に戻り

血圧も体温も上がり始めました。


その時の父の

ちょっと涙が溜まっていた笑顔


それを見ているだけで

少し幸せな気分になりました


母は命をもう一度いただきました。


亡くなった命のおかげで

繋がった命


ICUでその命にまた心で手を合わせ

その人の分も母には生きて欲しいと

心から願ったあの日あの場所は

今でも忘れることはできません。


母の命があること

一生飲まなければいけない薬を飲んで

生きている母へ

娘を預けて治療の為に東京に出て

負担をかけるけど

今、私に出来ることは

生きること

生きれる可能性があるなら

それにかけてみる事でした


もし母に何かあったら

すぐには飛んでいけない

傍に居てあげれない

それでも、私は生きたいから

心臓疾患を持つ母と中学生の娘を残して

自分の生きる可能性を模索しました。


1人で闘うと決めたのは

そんな母に負担をかけたくなかった。

と言いながらも

娘を見てもらうという負担はかけましたが。



お父さんとお母さんの子供で良かったニコニコ



    

読者登録、フォロー、いいね

ありがとうございます
とても励みになりますお願い

 

 

色々なブログが見れます

ポチッと応援クリックお願い致します

にほんブログ村 その他日記ブログ アラフィフ女性日記へ

 
にほんブログ村 病気ブログ 子宮頸がんへ
 
にほんブログ村 病気ブログ がん 闘病記(完治)へ

 

PVアクセスランキング にほんブログ村