人間の哀しさは
本来、その人がそのままの姿で
ありのままで自然体でいることによって
周りは安心する事ができる。
そのような真実がある。
でも、本人は自分であってはいけないと思って
足りないと思って、
色々と頑張ったり欠点を隠したり
克服しようとする。
ありのままが一番美しい
けれども、それができないし
ありのままの自分でいようなんて
到底思えない。
欲しい!と求めて頑張っているのに
頑張れば頑張るほど遠ざかる。
それが人間の哀しさだと思う。
人間の哀しさは
本来、その人がそのままの姿で
ありのままで自然体でいることによって
周りは安心する事ができる。
そのような真実がある。
でも、本人は自分であってはいけないと思って
足りないと思って、
色々と頑張ったり欠点を隠したり
克服しようとする。
ありのままが一番美しい
けれども、それができないし
ありのままの自分でいようなんて
到底思えない。
欲しい!と求めて頑張っているのに
頑張れば頑張るほど遠ざかる。
それが人間の哀しさだと思う。
僕らは、毎日、毎日
たくさんのことが頭の中に浮かぶ。
でも、そのほとんどを否定して
こう考えちゃいけないとか
こう思っちゃいけないとか
それは恥ずかしいことだとか
それは大人として間違っているとか
湧き上がってくるものに対していつも否定している。
でも、冷静に考えてみて欲しい。
あなたの心の中に湧き上がってくるもの。
それは本当にあなたが感じていること。
それを否定したり
なかったことにしたり
だめだとか思ったりする事は
一体何の意味があるのだろうか?
僕らはそうやって
自分の本当の気持ちを否定したり
なかったことにするから
訳がわからなくなってしまう。
ひどいことを考えたり
大人としてダメなことを考えたり。
でも、あなたの中から生まれてきたもの。
別にそれは、外に対して伝えなきゃいけないわけじゃないし
誰かに話さなくてはいけないことではないのだから
別にいいんじゃないのかな。
その湧き上がった気持ちを大事にすること。
それが自分を大切にすることだし
あるがままで生きるということなんじゃないだろうか。
僕の大好きな岡本太郎さんの本の中に、こんな一節ある
「積み上げていくんじゃなくて、積み減らしていくんだ」
その本を読んだのは、10年以上前なのではっきり覚えてない。
でも、岡本太郎さんは、そのようなフィーリングのことを書いていた。
僕らは生まれた時はまっさらなのに、
どんどん親からいろいろなすり込みをされて、
幼稚園や保育園、小学校、中学校、高校、大学と
世の中の事を教え込まれ
知識をつけていく。
そして、本当に役に立つかどうかわからないことを
どんどん溜め込んで生きている。
そうなると君の本質は隠されて、
分厚い皮に覆われて、もう見えない。
だから岡本太郎は、
本当の自分の本質、核の部分に触れるためには
積み上げるんじゃなくて、積み減らして、
先入観や今まで教え込まれた価値観を
どんどん削って、無駄な部分は削ぎ落として
本当の自分に、人間になっていくべきだと
本の中で言っていたんだと思う。
外側のいろんなものをくっつけるんじゃなくて
あなたの本質で生きていく。
もうそんな時期が、来ているんじゃないかと思う。
どんな人でも
一生懸命に生きている。
あなたがめちゃくちゃ嫌いな人も
一生懸命生きている。
あなたがめちゃくちゃ嫌いな人は、
たまたまあなたと感性が違っていて、
あなたが嫌だと思うことが全く問題なくて
あなたが心地よいと思うことが嫌なだけ。
それぞれの信念や思い込みの中で、
一生懸命生きている。
あなたが嫌と思う自由があるように
あなたの嫌いな人も嫌だと思う自由を持っている。
わけのわからないタイトル失礼します。
人はどうやったら好かれるのか?
人はどうやったら愛されるのか?
僕は、内面と外面のギャップが少ない人が愛されると信じていて
内面と外面の差ができるだけ少ない人が好かれると感じている。
人が生まれながらにして
対称性が美しいと感じる感性を持っているのと同じ感覚だと思う。
人は自分で気づいていないだけで
かなりの割合で人の本心を見抜くことができる。
それは意識ではなく無意識の部分で。
目の動き、口角の上がり方、めじりの感じ、
眉毛、息づかい、声の高さや話す間など。
話している言語以外にも
たくさんの視覚情報から情報を得ている。
だから、たくさん喋っていなくても
会ってから数分で
感じが悪い
おとなしい感じがする
威圧的な感じ
など沢山の判断ができる。
正しいかどうかは別としてね。
だから、内面と外面が一致していると感じると
安心、安全と感じるし
だから居心地がよい。
そういう人は取り繕う必要がないから
気楽に居られる。
だから、大丈夫。
他人に気を使ったり
良いところを見せなきゃとか
これっぽっちも思わなくていいと思うんだよね。
よく見せようとすると
さっき書いた理由で逆に嫌われるかもよ。
だから安心して欲しい。
あなたはありのままでいたら
勝手に好かれちゃう。
一番愛される。
よく見せようとするから上手くいかないんだよね。
これが内面と外面一致させたら愛されるの法則。
僕もやりたい事はなんだろうって
たくさん考えた時があった。
たくさん考えても
やりたい事が見つからない。
なぜか?
それは自分を曖昧にしているから。
自分の気持ちを曖昧に、
雲のように、霧のようにしてきたから。
例えば、
僕が食べたいのはカツ丼です!
って、表現して目の前に置いたとしよう。
そうしたら周りの人は
「カツ丼は昨日食べた」とか
「カツ丼は太るだろう」とか
「カツ丼は味が濃くて...」とか
好き勝手なことを言うわけ。
特に君が成人する前の段階で
特に親や兄弟にたくさん言われるわけ。
そうすると、自分が食べたいと思った
カツ丼が揺らぐのよ。
グラグラとね。
あれ?親子丼が美味しいの?
もしかして天丼を食べた方が得?
まさかの、ただの白飯が一番太らないしいいの?
みたいな葛藤が始まる。
もうそうなると
いやいや、カツ丼だ!
って言えなくなってくるよね。
だからと言って、あなたはカツ丼も捨てられない。
そうなると
見た目はただの白飯
食べ進めたら下には天ぷらが入っていて、
さらに食べ進めたら
親子丼の層を発見。
さらに食べ進めたら
底にはカツの卵とじ。
こんなんどんぶりできました。
いったい何の料理やねん。
曖昧にしたどんぶり
曖昧丼の完成です。
これじゃあ
自分の好きなのは
〇〇丼です!
って言えないよね。
そう、だからやりたい事なんて見つからないの
仕事がない
お金が無い
恋人がいない
友人もいない
綺麗な美貌も無ければ
最近、髪の毛が薄くなってきたかもしれない(笑)
無いものを探し続けると
あるものが見えなくなる。
これは間違いない。
無いものを考えて時間がどんどん過ぎ去り
あるものを考える時間が無くなるから。
どっちを考えてもいいんだけど
あるものを考えた方が、
幸せを感じれるんじゃないかと思う。
ただそれだけなんだと思う。
ない、ない、ない!
探し物をしている時ってなかなか見つからないんだよね。
だけど、最終的に
「嘘だろ?1番最初にここ探したやん!
何でここから出てくるわけ?」
みたいな、とんでもない所から見つかったりする。
無いと思うと、いくら探しても見つからないの。
でも、実はもう目の前にあるの。
あなたは愛されていて、
生きていてOKだから生きているの。
OKだから、心臓が動いている。
あなたが愛されている証拠なんて
無いと思ったら見つからないよ。
幸せだ、恵まれている、愛されている
って思うから見つかるのよ。
東南アジアを旅して
7年くらいタイにも住んだけど
何回も言うけど
日本に産まれている事だけでも
かなり幸せだと思うよ。
感謝は大事。
そんなのはわかってる。
でもなかなか言えない。
近ければ近いほど言いづらいかもしれないし
いろいろ言えない理由もあるかもしれない。
だから、おもいっきり
心の中で
「ありがとう!!」
って叫んだらいい。
もちろん、声に出して
相手の目を見て言えたらいい。
でも1番大事なのは、
あなたの感謝の気持ち。
だから、心の中で思いっきり叫んでいたら
いつか
ちゃんと言えるようになるから大丈夫。
だから、心の中で思いっきり感謝して下さいね。
小学校の時
ピーマンが食べれなかった。
でも今は美味しいと思える。
20代の頃
酢の物が食べれなかった。
例えば、タコときゅうりの酢の物や
大根とにんじんの酢の物。
でも今は逆に美味しいとさえ思える。
あなたの目の前には、
家庭や職場で嫌いな人がいると思う。
「こいつ嫌い!」
そう思うのは簡単なんだけど、
それは、ぶった斬って無機質に相手を見ているということだと思う。
わかるよ!俺も無茶苦茶嫌いな人いたから。
「俺の何が悪い、あいつが悪い!」
でも、そうすると相手の何もわからないまま
終わってしまう。
わかるよ!
「わかりたくもない!」その気持ち。
でも、嫌いな人っていうのは
必ずあなたの見えていない何かを映し出しているんだよ。
だから嫌いなんだよ。
僕の場合は、
「なんでわかってくれないんですか!!」
っていう怒り。
これ、親への怒りの投影だったんだよ。
それがわかった時
不思議なことに嫌いな人が少しずつ嫌いじゃなくなって、
その人は退職して目の前からいなくなった。
あなたが嫌いな人は
あなたの心の大きな何かを握っているかもしれないよね。