1988 Seattle Mariners特集 (先発投手・前編) | 助っ人先生のブログ

助っ人先生のブログ

子供時代に好きだったプロ野球、MLB、NBA、日本サッカーなどに関するギャラリーと薀蓄

急に88マリナーズの先発投手陣について語りたくなったので特集を。20先発登板以上限定。

 

昨年9月にヒューストンでの臨床死から生還

 

88マリナーズのエース(左)、マーク・ラングストン。最近は大谷が所属するエンジェルスの専属ラジオ解説者として知られる。83年IIAでの活躍を認められ飛び級で84年にメジャーデビューするといきなり三振奪取王を獲得。ついでに与四球王にも(汗)。怪我で成績が落ちた時期もあったが弱小球団のエースとして87年に19勝。88年もチーム唯一の二けた勝利で15勝。GGも二年連続受賞。AS四回、GG7回で守備にも定評のある名投手。

 

88マリナーズにおける右のエース

 

80年全米ドラフト1位指名のムーア。14年で二桁敗北が11シーズン。特にマリナーズ時代には二桁敗北と負け越し同時経験が5回。トータル66勝96敗で球団暗黒時代を象徴する一人だった。ただしキャリア中200イニング越えも9シーズンあり、マリナーズ時代に完投数二桁を三度記録している事と合わせるとdecision(勝ち負け)が付きやすい投手でもある。88年も含め年間3完封を3度記録したこともあり、調子に乗ると手が付けられないあたりさすが全米一位指名。引退後はオクラホマで後進育成を楽しんでいる。最近ではすっかりずんぐりとした体格になり見た目がシュレックみたいに(苦笑)

 

伸び悩むスウィフト

 

日本に敗れ銀メダルに終わった84ロス五輪のメンバー、ビル・スウィフトが三人目。88年はリリーフ兼任でチーム3位の8勝。キャリア中怪我に悩まされることが多く、マリナーズ在籍時は98年の復帰まで二けた勝利を経験したことが無かった。89年からリリーフメインとなり、91年には元ロッテ・ラフィーバー監督による球団初勝ち越しにツインクローザーの片割れとして貢献。92年からは天然芝を本拠とするサンフランシスコへの移籍で大躍進。得意のシンカーが活きた92~94の三年間が彼のピークとなった。2013年から18年までアリゾナ・キリスト教大の監督を務めた。

 

マリナーズの新時代を担うはずだったバンクヘッド

 

やはり84ロス五輪銀メダリストのバンクヘッドが四人目。デビュー時はカンザスシティの投手だったが、若き強打の二世選手、ダニー・タータブルらとのトレードでシアトルへ。毎年大器の片鱗を見せるも肩の腱炎などで苦しみなかなか通年安定することがなかった。88年も4月と9月を棒に振ったが残りの4か月で3.07ERAと7勝をマーク。キングドームで大炎上する先発投手が多い中にあって健闘した。89年は中盤戦以降平均24.5歳の若きカルテットで構成されたマリナーズ先発投手陣を率い14勝。「ビッグ・ユニット」やハンソンらと共にさらなる活躍が期待されたがやはり怪我で脱落。92年以降はリリーフに転向し95年シーズン後引退。

 

ホームタウン・ボーイのキャンベル(後年横浜)

 

シアトル生まれのマイク・キャンベルが五人目。85年ドラフト1順目7位指名は「故郷を背負うようになって欲しい」という思いもあったのだろう。順調にというか少し急き過ぎるほどのペースで下部組織を駆け上がり、87年二軍での15勝という好成績を引っ提げていきなりローテ入りを果たしたが現実は厳しかった。88年も6月半ばまでローテを守ったが3勝8敗と振るわず8月20日まで二か月ほど二軍落ちを経験。復帰後に三連勝もあったが良い日と悪い日がはっきり分かれることが多く5.89ERA、6勝10敗でシーズンを終える。それからのキャリアは慢性の肩痛もあり苦戦。二軍どころか三軍まで後退することも。彼の事をすっかり世間が忘れ去った90年代半ばようやく比較的健康なマイナー暮らしを送るようになり96年一軍(カブス)でまさかの3勝。こういった状況を背景に97年横浜入り。しかし日本での一年も含め現役最晩年は肩痛のみならず足首の再建手術まで必要になる始末。怪我だらけの現役生活だった。