白河ゴルフ倶楽部 | ゴルフ場探訪記 in 福島

ゴルフ場探訪記 in 福島

震災と原発事故で大きな打撃を受けた福島県のゴルフ場、様々な歩みを体験リポートする。

白河ゴルフ倶楽部

2014年7月30日(水)


白河ゴルフ倶楽部は白河市の郊外、かつての大信村にある。東北自動車道の矢吹インターからおよそ20キロ。

標高600メートルに展開する3コース27ホール。那須コース、阿武隈コース、権太倉コースそれぞれに特徴がある。

権太倉コースはクラブハウスの正面にそびえる権太倉山に向かってレイアウトされ雄大な景観が広がる。なだらかで広いフェアウエイがいい。かつては牧場だったという。

阿武隈コースは林間コース、那須コースは高い木々によってセパレートされ、大きな池が目立つ。


3コース

クラブハウスは牧歌的な風景にマッチした、牧場のサイロ風の建物だ。壁面には地元産の白河石をふんだんに使い、和やかな牧場の雰囲気を演出している。表玄関は木製の引き戸、ゴルフ場としては珍しい。内部は木と石の組み合わせ、天井や窓枠が木製のためぬくもりがある。



クラブハウス

白河ゴルフクラブを運営しているのはNPO法人である。NPO法人になったのには訳がある。白河ゴルフ倶楽部を経営していた大手ゼネコンが経営の再編に取り組んだためだ。


白河ゴルフ倶楽部は1996年(平成8年)に清水建設と大信村(現在の白河市)が出資する第3セクターのコースとしてオープンした。その後、2001年(平成13年)には清水建設が100%出資する株式会社

 白河ゴルフ倶楽部が運営をしてきた。

しかし、2004年(平成16年12月)に清水建設が本業に専念するとして、白河ゴルフ倶楽部を大信村に無償で譲渡したのである。

このため、大信村は新たにNPO法人を設立して、ゴルフ場経営をすることになった。

NPO法人がゴルフ場を経営するのは全国でも珍しい。唯一かもしれない。

大信村は譲り受けることによって、年間3千万円の固定資産税を徴収できなくなるが、ゴルフ場を雇用の場の確保と有力な観光資源と位置付けたのである。


挑戦したのは阿武隈コースと権太倉コース。高原にあるゴルフ場とあって、吹き渡る風はさわやかだ。猛暑の夏にも関わらず、ジリジリと刺すような陽射しではない。


この日、名人は珍しく攻撃的であった。積極的であった。名人のゴルフスタイルは「考えるゴルフ」である。しかし、考えるゴルフは時として、リズムを壊す。ゴルフは止まっているボールを前に考える時間がありすぎるスポーツだ。この日の名人はリズムがいい。パットも流れるようなリズムがあった。微妙な距離を次々と沈めた。名人のプレーは「攻撃は最大の防御なり」をゴルフで実践して見せた。



名人

巨匠はいつもの勝負強さが消えた。「パットのラインは最初に読んだラインが正しい。これを修正すると何故か外れる」と喝破した人がいた。

この日の巨匠はまさに迷いがグリーン上に凝縮されたようであった。

ゴルフを美しい女性に例えて「付き合い方のよっては、極上の幸せをもたらされるが、手の負えなくなると、これほど厄介なものはない」という。そんな、かみ合っていないようでも最後はきっちりと帳尻を合わせるのが巨匠の巨匠たる所以である。



巨匠

粋人はこの日、バンカーショットがことごとく成功した。これまでバンカーにつかまると大たたきしていた姿が嘘のようであった。開眼に導いた言葉がある。「バンカーショットはもっともやさしいショット、なぜならボールを打たなくてもいいから」というのだ。つまり、考えなければ止まっているボールを見つめて、様々夢想しないことと納得した。


そして、今日の巨匠、名人、粋人の結論は

「ゴルフは単純なスポーツだ。しかし、単純がゆえにいろんなことを考えてしまう。いつしかゴルフは

複雑なスポーツになった。ゴルフは単純であること、それを理解するのがいかに難しいか」だった。


NPO法人になった白河ゴルフ倶楽部は3.11の東日本大震災でも大きな被害を蒙った。

那須コースの5番 ショートホールはコースでは土砂が崩れた。それでもスタッフ全員で修理したという。


那須5番

スタッフに一体感が感じられるゴルフ場であった。

首都圏からの宿泊プレーヤーは震災前まで戻ってはいないというが、この地方のゴルフ場の中では活気が感じられた。