青春と呼ぶには程遠い血と血の抗争の毎日だったけど、
俺は自分をヤクザと思った事は一度もなかったよ。

そう語るのは、長年の付き合いがある空手の先輩であり、
80歳を過ぎようとしても未だに、空手組み手の相手をしてくれる
空手5段の達人である。

20代の時に東興業(安藤組)と呼ばれる組織で活動していたと
飲みの席等で聞いていた。

安藤組とは、後に映画俳優として活躍する安藤昇氏
が愚連隊を集めた集団であり、
通常のヤクザとの違いは、指つめ、刺青、麻薬は禁止であり、
ボルサリーノとスーツを決めたイタリアやアメリカマフィアの風貌を
していたお洒落な集団であり、昔ながらの暴力団組織とは違い、
バックに頼らず、ひとりひとりの、腕で伸し上がる集団であった。

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任侠が死言になり、汚さのみ表に出た平成ヤクザは嫌いな俺でも、
安藤組の名前を聞くと、何処か血が騒いだりする。

今日は、そんな元安藤組組員に直接インタビューをして見た。

1964年、安藤組は解散後、堅気家業についたので名前は仮にKさんにして欲しいとの
事で許可が降りた。






― まず組長(社長)であった安藤昇さんの印象はどんな感じでした?

「社長はニヒルな人だよ。ニヒルと言う言葉が当てはまる。
スーツもシャツも車もお洒落で、当時まだ20代だったが大人に見えたな」

― 映画俳優としての安藤さんもカッコ良かったですが、あのままの感じですか?

「実は社長の映画あまり観たりしなかった。
でも東映の映画俳優はお呼びじゃないって位、かっこいいだろうな」


― 安藤組に正式加入した経緯を教えてください。

「 元々、渋谷にある國學院の空手部にいて、
その一期上に西原健吾と言う兄貴分が、主将をやってて、よく渋谷の街に飲みに出掛けたんだ。喧嘩ばかりになってね。いつの時代も不良は、かならずいるだろ?」


― 俺の時代なら宇田川警備隊等のチーマがたくさん渋谷にいましたが、
やはりその時代も当然ながら不良がいたわけですね。
喧嘩相手とは具体的にどんな組織だったのですか?

「だいたい、俺達は道玄坂や円山町辺りで飲んでたから、
絡んでくるのは安藤組ばかりだよ」

― 最初は安藤組と揉めてたのですか?

「揉めたも糞も絡んで来るから、やり返すだけだよ」

― でも愚連隊で喧嘩屋の集団、安藤組だから幾ら空手部でも手こずったりやられたりしました?

「お呼びじゃないよ。ナイフとか出す連中もいたが殆ど、一撃で倒してたね。
西原兄貴を含め空手も三段以上持った奴ばかりだから相手にならないね」

― ただ安藤組の仕返しとか半端でないと聞いた事があります。安藤組は殺られたらかならずやり返すと言うイメージがありましたから。

「そうそう、西原兄貴と飲んでる時に、小さなクラブだったかな?
兄貴分を連れて来た。何回かそんな事があったが、
真っ直ぐで血の気が粗い西原の兄貴はそれすらも返り討ちにする。
だがあの時は、兄貴も顔色が変わったね。
その時はメガネをかけインテリ風な人だったが、
メガネを外した瞬間、これは殺されると思ったよ」

― 空手の達人の二人まで焦るような凄い人が来たんですね?

「背丈が185くらいあったのか?顔はナイフで刺された傷だらけで、
とにかく眼が今までの安藤組のチンピラとは訳が違う」

― まさか、ステゴロ(素手喧嘩)ナンバーワンと言われた花形敬さんでは?
(花形敬と言えば、歴代の不良の中でも素手喧嘩なら、最強と呼ばれバキの花山薫や
あしたのジョーのゴロマキ権藤のモデルにもなった人物)

「そうだよ、花形の兄貴が出てきた時は、西原兄貴も俺もびびって手も出なかったな。だいたいボクサーとかレスラーとか格闘家には、素人では勝てないとか言うだろ?  俺もそれまでは、そう思ってたがこの人は格が違う」

― 現に伝説では花形さんは、あの力道山を追い込んだりしましたよね?

「アレも(力道山)ヤクザみたいなものだから追い込みかけて当然だよ」

― 以前、真樹日佐夫先生も花形さんには敵わなかったと言ってましたし、
格闘家であっても一歩もひかないと聞いてます

「喧嘩はルールが無いだろ?
ルールのある空手なら花形の兄貴に勝てるかも知れない。
だがステゴロ(素手喧嘩)になればあの人とやったら死ぬなと思ったよ。
たぶん西原兄貴もそう感じたんじゃない。
あの人は日本刀やピストル持った相手に素手で立ち向かいやっつけるんだから。
だけど実際話すと頭が良く話も分かる様な人で、以外と謙虚で話せてね」

― それで花形敬さんの舎弟になり、安藤組に正式加入したのですね?

「西原の兄貴が花形兄貴に惚れ込んだ部分はあったね」

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― 映画(疵)の中ですが、銃で撃たれても立ち向かう花形さんの姿を見た時はたまげましたが、
リアルにそんな人と接するとはまた凄い!安藤組とは最初は喧嘩相手だったのに、
いつしか舎弟にまでなるとは花形さんもかなり人望がある人だったのですね?

「酔うと年中、コツかれたりしたけどね。
でも本当は優しい人なんだよ、社長(安藤昇)も優しい人だよ。
だからあの組は長く続かなかったと思う」

― 安藤組と言うのは安藤昇さんや花形敬さん以外にも有名な面子がたくさんいましたが、
当然交流はありましたか?


「森田雅さんや住吉会の常任相談役になった石井福造なんかも有名だが、
あの頃は組織もでかくなり、多い時で500人くらいいたから、
派閥みたいなものも少なからずあったから当然、
仕事絡みで話したりはするけどキャバレーやクラブに遊びに行くときは、花形兄貴の側近が多かったかな」

― 作家の安倍譲二さんも安藤組にいたと聞きますが、交流はありました?

「ああ、奴は年下でいつもニッコリ笑ってた印象あった。
頭が良くて、かわいい奴で飯を食いに連れてったりしたよ」

― 安藤さんの更に親筋にあたると言われる愚連隊の神様、万年東一さんとか交流ありました?

「あの人は随分と自由な人で神様扱いされていた、
その子分の小林光也さん何かには相談とかしたな!」

― 万年一家の大光、小光の小光さんですよね!まさに、
今や愚連隊の歴史的人物とも交流があるとは興味があります。

「小光さんもそうだけど、あの時代の不良はいつ死んでもおかしくないくらい、
とにかく喧嘩ばかりしたな。
こういうヤクザでは無い組織は自分に頼らなきゃ、他に舐められてしまう」

― 安藤組はヤクザでは無いのですか?

「正式には東興業という社名もあった。もともと、万年東一さんの(東)から
頂いた名前で、万年さんはヤクザ嫌いで生涯堅気を通した。社長(安藤昇)もその影響があったと思う。少なからず、初期からいたメンツはヤクザ組織という意識は無かったよ」

― 安藤組を抜けたのはいつでしたか?

「俺は最後までいたよ。横井(ホテルニュージャパン横井英樹社長)を襲撃してからそれまで順調だった会社も、社長や花形の兄貴や森田さんまでムショ(刑務所)に行ってしまい、若いのが見境なく他と喧嘩したり。やはり組織はまとまりがなきゃダメだ」

― 安藤さんが刑務所に行き、残った花形さんが社長代行を勤めたと聞きましたが。

「花形の兄貴が先にムショから出て、社長の代わりはやってたかな。
だけどうちの若いのが揉めて、あの花形の兄貴は刺されて殺されちまった。
西原の兄貴達と仇を考えたがいざとなれば誰も動けない」

― もう安藤組も上がいなくなり、一枚岩にはなれなかったと言う状態ですか?

「それで、西原の兄貴までI川会と揉めて、撃たれて殺されてしまって。
若かったとは言え、本気で泣けて来てな」

― 安藤組の解散理由が西原健吾さんの殺害事件に寄ると聞いた事がありましたが、
西原さんはどんな方でした?

「学生の頃からの付き合いだったが、とにかく真っ直ぐな人で、
ああ言う、不器用な人が早く死んじまうなんて思ったね」

― 結局、安藤さんは出所するが、安藤組を解散させたのですよね?

「花形の兄貴や西原の兄貴の仇を討たないまま解散になって、社長は俳優に転向した。尊敬はしてるが、悲しい気持ちにもなった」

― それで皆さん、バラバラになったのですね?

「ヤクザになった人もいるし、俺みたいに堅気になった人もいる。
作家になったりと様々だね」

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― 最後に何か一言を頼みます。何でも良いので

「そう言われても困るな・・・・・・・・(時間を置いて)あの時、西原の兄貴と渋谷で暴れていなければ、兄貴は今も生きてたかも知れない。
でも運命は変える事は出来ない。
俺、今度、孫が結婚するんだよ。
曾孫まで拝めるなんてあの頃は思いもせんかったよ。
そして花形の兄貴や西原の兄貴が死んだように、暴力はカッコがいい事とは違うという事を言いたい」

― 今日はありがとうございました。

人生というのは、どう生きるかで、命の長さまで左右される。
ただ、この世に誕生した以上、自分の生き方という奴に
出会えた人が幸せなのかも知れない。




さすらい彼岸花 安藤昇