第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第3節 マルチェロ(9) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 

  
  救護活動に奔走する祖母を残し、兄のことを

心配した母と私は先に家に戻りました。ヴァル

ド派への迫害事件が起こってからというもの、

兄は父母のいる家には殆ど戻ることは無かった

のですが、この日も兄は祖母の家に戻っていま

した。

  私たちが入って行くと、薄暗い部屋の中、何

も無い食卓の上に突っ伏している兄の姿があり

ました。兄は食卓の上にあったものを払い除け

たのでしょう。水で濡れた床には皿の破片やパ

ンが散乱しています。兄は何も聞きたくないと

言わんばかりに両手で耳を塞ぎ、何も見たくな

いと言わんばかりに食卓に顔を押し当て、私た

ちが部屋に入って行っても、身じろぎもしませ

んでした。

  母は何も言わず、床にしゃがんで散乱したも

のをひとつずつ拾い始めました。

「大丈夫か? マルチェロ」私がその背中に声

を掛けても、何の反応もありません。「気持は

分かるけど」私はそれでも話し掛けました。

「こんなことするなよ。自棄(やけ)を起こして

も、始まらないだろ」

「黙れ!」

「俺たちにまで当たり散らすのかよ、少しは冷

静になれよ」

「うるさいんだよ! 放っておいてくれよ」

「何だよ、その態度は、心配して言ってやって

のに。お前がそんなじゃ黙っていろという方が

無理じゃないか」

「出て行け! お前も母さんも――」

「俺や母さんが何をしたって言うんだよ!」

「やめなさい、二人とも!」母が疲れ切った、

しかし、断固とした声で遮りました。「ラウロ、

あなたはもういいから帰りなさい。私も片付け

が終わったら帰るから」

「だげど母さん、マルチェロをどうするのさ」

「マルチェロのことはアンナおばあちゃんに私

から頼んでおくわ。マルチェロは大丈夫よ、大

丈夫。大丈夫だから……」

  母は自分に言い聞かせるように、最後の言葉

を繰り返しました。

  マルチェロは私と母の会話をどのような思い

で聞いていたのでしょうか。机の上に突っ伏し

たまま、兄は黙って何も話そうとはしませんで

した。
  
 
  それから数日後のことです。幽霊のように青

白い顔をした兄が、突然、私たちの家にやって

きました。その日、父が遠方に出掛けていて留

守にしていたのはただの偶然なのか、それとも、

兄が父の留守を選んでやってきたのか、それは

分かりません。もし父がいたら、結果は全く違

ったものになっていたでしょう。物事を何とか

上手く収めることができたのか、それとも想像

したくもない恐ろしいことが起こっていたのか。

しかし、何が起こるにせよ、動き出した運命は

もう止めようがなかったと思います。

  ダモクレスの剣が、私たちの頭の上に落ちて

くる時がやってきたのです。

  
  それは夕食が終わろうとする時間でした。兄

は黙って入ってくると、私と母が座っていた食

卓に腰を下ろしました。魂の抜けたような生気

の無い仕草で、力無く椅子に身体を預ける様子

に、私と母はどうしたらいいのが分からず、戸

惑うばかりです。「夕食は終わったの?」と尋

ねる母に、兄は黙って首を横に振りました。

  私と母は、兄マルチェロのただならぬ様子に

顔を見合わせました。

「今、用意するから、少し待っていなさい。大

したものを出せなくて悪いけど」

  母がパンを切って、スープを温め直す間、兄

は母の後ろ姿を黙って見ていたのですが、突然、

口を開きました。

「ねえ、母さん。母さんは俺がフランチェスカ

の一家と一緒にピエモンテに行くのを止めたよ

ね」

  一瞬にして空気が凍り付くのを感じました。

母も、そして私も、動きを止め身体を固くしま

した。それでも、母はすぐに気を取り直し、ス

ープとパンを兄の前に並べると、努めて平静に

答えました。

「ええ、そうね、確かに止めたわ」

「何か知ってたのか?」

「知ってたって、何を」

「決まってるだろ!」

  兄は拳で食卓を叩きました。

「ヴァルドに加えられた、あの迫害のことだ!」

「母さんがそんなこと知ってるはずないでし

ょ!」

  母も思わず大きな声を出しました。

「さあ、どうだかな。父さんはカトリックじゃ

ないか。何かしら事件が起こることを知ってた

としても不思議じゃない。母さんはそれを聞い

ていたんだろ。だから俺を止めたんだ!」

「そんなわけない! あれはフランスの国王が

やったことよ。父さんだってそんなこと知って

るはずはない。同じカトリック教徒だからとい

って、フランスの国王が何を考えているかまで、

こんな場所まで伝わってくるはずないでしょう。

それに、もしそんなことを知っていたのなら、

私だってフランチェスカたちをピエモンテに行

かせはしなかった!」

「嘘だ! 母さんはぼくが父さんの跡を継いで

カトリックになればいいと思っていた。そうな

んだろ! だからフランチェスカが邪魔だった

んだ、だからフランチェスカだけを行かせたん

だ!」

「あなた、本気でそんなこと言ってるの? 母

さんのことをなんだと思っているの?」母は堪

えきれずに泣き出してしまいました。「私がそ

んな恐ろしいことを考えるような人間だとで

も……」

「俺がカトリック教徒になればいいと思ってい

たと言ったじゃないか」

「私はそんなこと言ってない!」

「いや、言ったとも! 俺が父さんの跡を継ぐ

のがいいと言ったじゃないか!」

  私は堪らなくなって、母と兄を残して家を飛

び出しました。母に八つ当たりをする兄は、も

う正気とは思えませんでした。外に出て、家の

戸口の所に座って耳を塞ぎました。それでも、

家の中で飛び交う呪詛の言葉から逃れることは

できませんでした。

  「もう騙されないぞ、もう母さんの思い通り

になんかなるもんか! 俺がカトリックになっ

たとしてもヴァルドのフランチェスカと結婚で

きるはずだって、そう言ったよな。そんな馬鹿

げたことを考えていられるのは母さんだけだ! 

そんなことできるはずない。あれを見ても、ま

だ俺にカトリックになれだなんて言えるのか? 

なんであいつらはあんな酷い真似ができるんだ。

あれが人間が人間に対してすることか。話せば

分かる? お互いに理解しあえる? そんなの

嘘だ。そんなことできるもんか!」