第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第3節 マルチェロ(8) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 

  
  釈放されたヴァルドたちがジュネーブに到着

したという知らせが、街を駆け巡りました。私

たち一家も、祖母を中心に、毛布、食料、衣類

など、かき集められるだけかき集めて、救援に

向かいました。ジュネーブ郊外のプロテスタン

ト教会を中心に設営された救護施設には、釈放

されたヴァルドのみならず、迫害を逃れて山中

に隠れていた者たちをも加えて、難民たちが続

々と流れ込んでいました。

  私たちはその恐ろしい光景を前にして息を飲

みました。それはまるで幽鬼の群れのようでし

た。ここまで辿り着きながら力尽きて倒れてい

く人を見て、足が竦(すく)んで動けなくなりま

した。焚き火の煙に霞む広場には、腐った布で

も丸めてあるのかとも思えるような黒い塊が寄

せ集められています。私たちが傍を通ると、そ

の黒い塊から呻き声が洩れ、汚れた手が伸びて

くるので、それが蹲(うずくま)っている生きた

人間なのだと分かるのです。

  私と兄が病人やけが人の介抱に当たる一方、

母や祖母は大鍋で大麦を煮て、粥を作って配り

始めました。そうしながらも、私たちは行方の

分からないフランチェスカの手掛かりを探し求

めていました。しかし、その努力は想像もしな

かった最悪の結末を迎えてしまいました。

  
  避難民の中にフランチェスカがいたのです。

  
  私にはそれを見てもフランチェスカだとは分

からなかったのですが、兄には分かりました。

フランチェスカは全身を黒い布で覆われ、地面

に伏せていました。顔だけは外に出ていたので

すが、薔薇色だった頬や愛らしい鼻は凍傷で真

っ黒に変色していました。ふっくらとしていた

唇は肉が落ちて一枚の皮のようになり、剥き出

しになった歯の回りに張り付いています。手や

足の指は凍傷で落ちてしまったのでしょう。立

つこともできず、動物のように四つん這いでし

か動くことができないようでした。しかし、兄

は見たのです。その獣とも見紛うような女の首

から銀のペンダントが下がっているのを。それ

は紛れもないマルタ十字と鳩のペンダントでし

た。フランチェスカは一体どうやって、どのよ

うな思いで、そのペンダントをここまで守り抜

いてきたのでしょうか。揺れるペンダントは、

自分を見付けて欲しいという、フランチェスカ

の心の叫びでした。

  しかし、フランチェスカの変わり果てた姿は、

兄を錯乱に追いやってしまいました。

  ペンダントを見た兄は、その場に釘付けにな

りました。兄が呆然としていると、フランチェ

スカはやがて首をゆっとりと巡らし、兄の方に

顔を向けました。そして、二人の視線が交わり

ました。

  
  兄はどうしたか。

  
  逃げたのです。

  
  兄はフランチェスカを見詰めながら、ゆっく

りと一歩下がり、そして、また一歩下がってい

きました。やがて、充分フランチェスカから離

れると、彼女に背を向けて歩き始めました。最

初はゆっくりと、しかし、その足は少しずつ速

くなり、最後には駆け出していました。そのま

ま、兄は走り続けました。息が続く限り、全力

で。

  フランチェスカは兄の姿をただ目で追ってい

ただけでした。死を前にして、その瞳はどこま

でも青く澄み切り、怒りも悲しみも無く、いか

なる不幸もその静謐を乱すことはありませんで

した。

  可哀想に、その後、二日と保たず、フランチ

ェスカは静かに息を引き取ったそうです。

  フランチェスカも、兄が感じた耐えがたい心

の痛みは分かったはずです。これは私の身勝手

な願いなのかもしれませんが、例え兄に背を向

けられたとしても、最後に愛する人に会うこと

ができたことは、フランチェスカにはなにがし

かの慰めになったと信じています。

  兄のことを臆病だとか、卑怯だとか言うこと

ができる人間がいるのなら、会ってみたいもの

です。自分の身にあんなことが起こったなら、

私だって正気でいられる自信などありません。
 
 しかし、兄のとった行動を卑劣だとして非難

し、どうあっても許さなかった人間がひとりい

ました。
  

  他ならぬ兄自身です。