第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第3節 マルチェロ(5) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

    

  
  マルチェロとフランチェスカの将来には何の

障害も無く、道は真っ直ぐに開かれているよう

に思われました。しかし、ここで予期せぬ問題

が起こります。フランチェスカの一家がピエモ

ンテに戻るという話が持ち上がったのです。

  一六五五年の鮮血の春――福音の谷を襲った

あの悲劇から既に三十年が経過して、忌まわし

い記憶も過去のものとなりつつありました。ピ

エモンテの谷では村落の再建も進み、かつての

平和と繁栄を取り戻しつつありました。フラン

チェスカの一家もまた、私たちと同じように大

迫害から逃れジュネーブに移ってきていたので

すが、ピエモンテに留まっていた親類から、谷

に戻らないかという打診があったのです。

  フランチェスカの一家は、先の見えない異国

暮らしをするより、故郷で自分の農場を持つこ

とに前向きでした。恐らくなのですが、祖母も、

この話の成り行きに一役買っていたのではない

かと思います。ピエモンテ帰還にも繋がるこの

話は、祖母にとっても願ったり叶ったりの話で

したから。

  しかし、この出来事は、誰も知らなかった兄

の一面を垣間見せることになりました。

  兄はフランチェスカと一緒に自分もピエモン

テに行くと言い出したのです。

  父譲りの芸術家肌とでも言ったらいいのでし

ょうか、兄の夢見勝ちな性格は勿論知ってはい

ましたが、こんなにも現実離れした考え方をす

るとは私にとっても意外でした。しかも、自分

の理想に掛ける思いは周囲を圧倒するほどで、

普段は物静かな兄の内側に秘められていた激し

い情熱に、誰もが驚かされることになりました。

私にはフランチェスカとの将来という夢に目が

眩んでいるとしか思えませんでした。兄には現

実がどのように見えていたのでしょうか。

  この時ばかりは祖母さえも兄を止めようとし

ました。

「ピエモンテには必ず行けるよ。おばあちゃん

が近い内に必ず連れて行くと約束する。だけど

ね、ピエモンテで生活を一から建て直すには、

お前には少し若過ぎると思うんだよ。お前が一

人前になってからだって遅くはないだろ? フ

ランチェスカのことなら心配いらないよ。あの

子はきっとお前のことを待っていてくれるから

ね」

  フランチェスカの一家は働き手を必要として

いたためか、兄の同行に必ずしも反対はしてい

なかったようです。しかし、見知らぬ土地で、

まだ十代の兄が一体どうやって生きていくのか、

農業なんて手伝い程度のことしかしたことがな

い兄に何ができるというのか、そもそも生活す

ることについて考えたことはあるのか、私たち

は家族総出で兄を説得に掛かりました。そして、

最後に兄を説き伏せたのは、これまで自分の考

えを決して押しつけようとはしなかった母でし

た。

「何も慌てる必要はないわ、もう少し自分のこ

とを見つめ直す時よ」母は兄と向き合って静か

に語り掛けました。「本当のことを言うと、私

はお前が父さんの工房を継いでくれるんじゃな

いかと思っていたのよ。父さんも、お前には才

能があると言ってる。お前がフランチェスカと

結婚したいのなら、工房の職人として身を立て

てからでも遅くはないと思うの。

  信仰のことについて言うなら、確かに父さ

んの工房を継ぐならカトリックになることが望

ましいのかもしれない。だからといって、私は

お前にカトリックになれというつもりはないの

よ。ヴァルドになれとも言わないわ。神様が必

ずお前を導いてくださると信じている。信仰は、

お前が自分の内側から聞こえてくる声に耳を傾

けて、自分で決めなければならないことなのよ。

好きな人がヴァルドだからという理由で、自分

もヴァルドになる必要はない。最後に神様と向

き合うことになるのは自分自身だということを

忘れないで。

  お前がカトリックになったとしても、フラン

チェスカと一緒になる障害にはならないと母さ

んは思ってる。父さんと母さんを見てほしい。

お互いを人として認め合うならば、信仰の違い

は問題じゃない。今はもうそんな時代じゃない。

信仰のことで争う時代は終わったのよ。

  大事なことは、お前がもっと成長してから、

大切な人を迎えることなのよ」

  母の言葉で、兄はやっと自分の未熟さに思い

が至ったのでしょう。やっとのことで、ジュネ

ーブに残ることに納得しました。しかし、すぐ

にまた会える。二人はその事を信じて疑いませ

んでした。