第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第3節 マルチェロ(4) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

    

  
  そうやって祖母と私が誰も近づかないように

自分の家を見張ること小一時間。やがて、扉が

開き、フランチェスカが姿を現しました。

  祖母は急に姿勢を正すと木陰から歩き出し、

さも偶然であるかのようにフランチェスカと家

の前で出会いました。

「あ、アンナさん、お帰りにならないので、そ

ろそろお暇(いとま)しようかと……」

「待たせて悪かったねえ、葡萄酒をご両親に持

っていって貰おうと思ったんだけど、生憎いい

のが無くてね。用意しておくから、また取りに

来てくれるかい?」

「ええ、分かりました」

「うちは男の子ばかりだから、貴方のようなお

嬢さんが来てくれると、家の中が華やいで私は

嬉しいんだよ。次はもう少しゆっくりしてって

おくれ」

「はい」

「約束だよ」

「はい」

「で、いつ来てくれるの?」

  私は思わず祖母の腕を引っ張って、「やり過

ぎだよ、嫌われるぞ」と囁きました。

「今度の日曜日、教会に帰りに寄ります。それ

でいいですか?」

「ええ、勿論。待ってるからね」

  フランチェスカは帰ろうとして歩き出す瞬間、

後ろを振り返りました。

  そこには戸口の所に立ってフランチェスカを

じっと見ている兄の姿がありました。二人は目

が合うと、同時に微笑みました。

 フランチェスカは頬を薔薇色に染めて、再び

前を向いて歩き出しました。が、いつになく気

取った歩き方をするものだから、転んでしまう

のではないかと見ていてひやひやしました。そ

して、フランチェスカとすれ違いざま、彼女を

目で追いながら、祖母の顔に勝ち誇ったような

笑みが浮かんだのを私は見逃しませんでした。

  祖母の強力な後ろ盾もあって、マルチェロと

フランチェスカの仲は急速に深まっていきまし

た。かつて父と母が人目を忍んで会っていたよ

うな苦労は、二人には全く無縁です。自分の家

だろうと納屋だろうと、祖母がいくらでも場所

を提供したからです。二人が顔を合わせると、

祖母はその他の者たちを追い出し、どうかする

と二人を中に閉じ込めて、外から閂(かんぬき)

でも掛けかねない勢いです。祖母はフランチェ

スカの両親の懐柔にも余念がありませんでした

から、二人が早々に将来を誓い会う間柄になっ

たとしても驚くには当りません。

  祖母はともかくとして、父も母も、そして私

も、二人の関係には少々複雑な気持を抱いてい

ました。しかし、二人がとても楽しそうにして

いるのを見ると、少しでも否定的な言葉を口に

する気にはとてもなれません。特に私はこんな

形で信仰が決まってしまうことに義憤すら感じ

ていましたが、それは同じ年の兄が女の子と早

々に将来を誓い合う仲になったことに嫉妬する

気持も多少混じっていたのかもしれません。し

かも、マルチェロをうまくヴァルドに引っ張り

込んだことに気を良くして、祖母が私にも同じ

手を使おうとするものですから、なおさら反発

を覚えずにはいられませんでした。

「ラウロ、ほら、ニコレッタって娘、知ってる

だろ。あの娘、気立てが良くて、可愛い娘だよ

ねぇ」

「そう? そんなでもないと思うよ」

「今度、話し掛けてご覧よ」

「俺はいいよ」

  なんで俺にはあんなちんちくりんを勧めるん

だよ。私は罰当たりな言葉をやっとのことで飲

み込みました。

「おばあちゃんが話をしてあげようか?」

「好い加減にしろよ、そんなことしたら怒るぞ、

ほんとに」

  こんな馬鹿げた遣り取りをしている内は良か

ったのですが、私は次第に祖母を避けるように

なっていました。フランチェスカのことを通し

て、兄が祖母のお気に入りであることが、はっ

きりしてきたせいもあるかもしれませんが、私

には、祖母の信仰は押しつけがましいとしか感

じられなかったのです。確信の持てない信仰で

縛られるのが嫌なだけだと、自分を正当化して

いたのですが。

  或る日、祖母の話をのらりくらりとかわしな

がら生返事をしていると、祖母も苛立ったので

しょうか、他愛の無い話がやがてお説教となり、

ついには私の中途半端な生活態度に対する叱責

まで入り混じるようになりました。そんな祖母

に私も腹を立てて、つい口を滑らせてしまいま

した。

「俺に信仰のことで指図するな! おばあちゃ

んは、カトリックの父さんと結婚した母さんの

手を切り落とそうとしたんだろ! 俺は知って

るぞ! おばあちゃんなんて大嫌いだ!」

  祖母はまるで殴られたかのように、その場に

立ち竦み、口をぽかんと開けて私を見詰めてい

ました。しかし、やがてその目から涙が溢れ出

しました。私は堪らず、家を飛び出しましたが、

外に飛び出す瞬間、背中に祖母の呟くような声

が聞こえました。

「私がアンジェラの手を切り落とすなんて、そ

んなことできるはずはない、――私が自分の娘

を傷つけるだなんて」

  
  一度、口に出してしまった言葉を取り消す方

法は無いのでしょうか。私はこの時の言葉を一

生掛けて後悔する羽目になりました。

  その後、私も祖母も表面上は何事も無かった

かのように、普段と変わらぬ振る舞いをしては

いたものの、祖母が私に対して信仰の話をする

ことは殆ど無くなりました。