第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第2節 アンジェラ(2) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 



  

  しかし、どんな人間も永遠に子供の世界に留

まっていることはできません。否応なしにそん

な時代は終わるのです。母だって同じです。も

はや自分が子供ではないことを思い知らされる

時がやってきました。

  
  その日、母はジュネーブ市街で用事を済ませ、

家路に着こうとしていました。城門を抜けた時

には、既に空は黄昏時を過ぎて鈍色(にびいろ)

に、周囲の景色は影のように色を失い、冬を前

にした木立が裸の枝を空に刻みつけていました。

街の賑わいに気を取られて道草を食ってしまっ

たと、思っていたよりも時が経っていることに

気がついた母は道を急ぎました。市街を離れる

につれ、道は人気が無くなり、自分の住む村外

れまで来る頃には、もう道には誰の姿も見えま

せんでした。

  しかし、まさに自分一人だけだと思ったその

時、向こうから人が歩いて来るのに気が付きま

した。その黒い人影は、時に一つに合わさり、

時に二つ三つに分かれ、方向の定まらないよろ

めくような足取りで近づいてきます。やがて、

微かながら話し声も聞こえる所まで来ると、そ

の人影は三人のカトリックの少年たちで、よろ

めくような足取りは三人がふざけながら歩いて

いるせいだと分かりました。三人も母に気が付

くと、急に声を落としてひそひそ話し始めたか

と思うと、突然、大きな笑い声を上げたりしは

じめました。

  一人二人なら何とかなるけれど三人は少し面

倒だなと、母はそんなことを考えながら、道の

端によけ、三人を睨み付けながらその場をやり

過ごそうとしました。

「おい、ちょっと待てよ、俺たちのこと知らな

いわけじゃないだろ。挨拶ぐらいしたらどうな

んだよ」

  一人がすれ違いざまに母の腕を捕らえました。

「離してよ!」

  母は振り払おうとしまたが、その手は容易に

離れなかったばかりか、ますます力を込めて、

母の腕を締め付けました。

「あんたたち、後でひどい目に遭わせてやるか

ら! その時に後悔しても遅いわよ」

  少年たちはその言葉に声を出して笑いました。

  しかし、腕を掴んだ少年だけは笑うこともな

く、じっと母を見詰めていました。やがて母の

引寄せて「それはどうかな」と囁きました。

  母はその少年の顔を間近に見た時、その目の

奥にある光――子供の世界では見ることのない

不穏な光に気が付きました。

  今までとは違う。母ははっきりとそう悟りま

した。しかし、普通の女の子なら感じるであろ

う感情を母は振り払いました。恐くなんかない、

カトリックの奴らなんか。

  母は考えるより先に、少年の横面に平手打ち

をしていました。が、すかさず少年はその倍の

強さで母の横面に平手打ちを返してきたのです。

母は後ろによろめきましたが、それでも母の腕

を掴んだ少年の手は緩むことはなく、母はその

手にぶら下がるような形で倒れてしまいました。

  三人の少年たちは笑うこと止めて、じっと痛

みに耐えている母を眺めていました。やがて、

少年のひとりが母の胸元に手を伸ばし、服を掴

みました。しかし、それは、決して母を助け起

こすためではなかったのです。

  
  少年たちは母を引きずって、道路脇の叢(く

さむら)に入っていきました。

  母が怒りの声を上げて必死の抵抗を試みた、

その時でした。

「お前たち、何やってるんだ!」

  強い口調の声が少年たちの背後から聞こえま

した。

  一斉に振り向いた少年たちは、一瞬、状況を

測りかねていましたが、明らかに問題は無いと

思ったらしく、ふてぶてしい態度を取り戻しま

した。

「魔女を懲らしめてるのさ、この異端女が二度

と俺たちに舐めた真似できないようにしてやる

んだ」

  少年たちの体の隙間から、母は声の主を垣間

見ることができました。が、それはただ母の絶

望を深くしただけでした。母はその人を何度か

見掛けたことがありました。その青年について

知っていたのは、彼もまたカトリック教徒であ

ること、それだけだったのです。

「異端の罪の裁きは神に任せろ、お前たちの仕

事じゃない。放してやれ」

  その言葉で少年たちの目の色が変わりました。

「何だよ、気に入らねえな。こいつがどんな女

か、知ってて言ってるのかよ」

「ああ、知っているとも」

「じゃあ、何で止めるんだ。魔女が怖いのか?

 度胸が無いならさっさと行けよ。俺たちの邪

魔すんな」

「度胸が無いのはお前たちの方だろう。男三人

掛りで女の子一人に乱暴なんて、みっともない

真似をするな」

「何だと?」

  少年たちは母から手を放して、その青年に向

き直りました。

「もう一度、言ってみな。格好つけやがって」

「こいつ、前から胡散臭い奴だと思ってたんだ」

  少年の一人が青年の鼻先にまでにじり寄りま

した。

「お高く止まりやがって、売れもしない絵なん

か描いてるのが、そんなに偉いのかよ。俺たち

が農夫の倅(せがれ)だからって馬鹿にしてんの

か?」

  青年は年上らしい落ち着き払った態度を崩す

ことはありませんでした。しかし、すっかり頭

に血が昇った少年たちは群れた野犬と変わりあ

りません。少年たちは青年を突き飛ばして地面

に引きずり倒し、青年を囲んで木靴を履いた足

で蹴り始めました。

  青年は、明らかに軽そうではあるけれど、大

きな布に包まれた四角い荷物を抱えていました。

喧嘩をするつもりならそれを下に置けばいいも

のを、それを後生大事に胸に抱えたままだった

ので、まるで抵抗らしい抵抗もできず、青年は

少年たちの暴力に晒されるがままになっていま

した。

  ひとりの少年の蹴りがその荷物に当たり、荷

物は道に放り出されて、包んでいた布が解けま

した。それに目を留めた少年たちは、突然、動

きを止め、道に落ちた包みの中をそのまま見詰

めていました。が、やがて、

「面白くねえな」

「やる気が無くなったぜ」

「こんな奴、相手にしてもしょうがねえよ」

  などとぶつぶつ言いながら、後ろを振り返り

もせず、その場を去っていきました。

  
  母には自分の目の前で起こったことが良く理

解できませんでした。

  叢(くさむら)から起き上がると、道に倒れて

呻(うめ)いている青年を覗き込み、それから青

年が持っていた包みの中身を覗き込みました。

  その時、なぜ少年たちが暴力を止めたのかが

分かりました。

  
  包みの中から覗いていたものは、白い百合の

花に包まれた聖母の姿だったのです。