第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第2節 アンジェラ(1) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 



  


  
  三日月のような形をして東西に延びるレマン

湖、その北側の畔(ほとり)を湖に沿って街道が

走っています。その街道の大部分は、北側に深

い森、南側に鬱蒼と茂るアシに視界を遮られて

います。しかし、アシの上に広がる空、風に運

ばれてくる水の匂いや波の音で、南側には湖が

広がっていると分かることでしょう。しかし、

街道を進んで湖の西端まで来ると、少々趣が変

わってきます。水の中にまで立てられた鉄柵、

堅牢な城壁や見張り台に、いささか物々しい雰

囲気を感じるかもしれません。その城壁に囲ま

れた街がジュネーブです。

  ジュネーブ共和国は、サヴォイア公国からの

独立後、百年少ししか経っていない小国ですが、

独立後、すぐにカルヴァン派による宗教改革が

行われ、以後、プロテスタントの国際拠点とな

りました。強国フランスの覇権主義にも関わら

ず、ちっぽけなジュネーブ共和国が独立を保っ

ていられたのも、ジュネーブに設立されたプロ

テスタント同盟が世界中の新教国を結ぶ重要な

役割を果たしていたからです。小さな街に世界

中から迫害を逃れたプロテスタントが集ってい

て、この教会からはドイツ語の祈祷、その街角

からはフランス語の討論、あの広場からは英語

の説教と、様々な外国語が飛び交う国際色豊か

な街でした。

  ジュネーブのプロテスタント同盟は、迫害を

逃れてきたヴァルドたちの保護に、いち早く動

きました。祖母アンナは難民の一人として、当

面はプロテスタントの保護の下、ジュネーブで

暮らすことになりました。祖母はアーゾラの村

でそうしてきたように、ヴァルドの子供たちの

ための学校で教職に就き、特に難民となった子

供たちのために尽くしました。ヴァルドの子供

たちにとっては、優しい姉のような存在であっ

たと同時に、厳しい教師でもあったようです。
  
  ジュネーブに辿り着いたその年の暮れ、祖母

は女の子を出産しました。

  私の母、アンジェラです。

  母が祖母から受継いだものは、正義感の強さ

や激しい気性だけではありません。カトリック

教会に対する敵意もまた祖母譲りでした。しか

し、それも無理からぬことだと思います。母は

父親の顔さえも知らず、ただ母親のアンナひと

りを頼みに、異郷の地で幼少時代を過ごしたの

です。母にとって、それはどんなに不安な幼少

期だったことかと思います。その不安が、幼い

母を必要以上に攻撃的にしたとしても何の不思

議があるでしょうか。すぺてはカトリック教会

による理不尽な迫害のせいだということを、母

は祖母から繰り返し聞かされて育ちました。祖

母の憎しみが、母をカトリックに対する敵意を

隠そうともしない子供にしてしまったのです。

  母が住んでしたのはジュネーブ市街の近郊の

村で、そこではカトリックとプロテスタントが

曖昧に分かれて住んでいます。カトリックとプ

ロテスタントでは、祝祭日はおろか使用する暦

まで違っていて、住人の間では揉め事が絶える

ことはなかったといいます。それはプロテスタ

ントに接収された教会の使用権を巡る問題から、

お祭りの時に歩く道順にまで及びました。新旧

教徒のいざこざから些末な訴えが次から次へと

寄せられていましたが、しかし、どれほど揉め

ようとも暴力沙汰に発展することは稀で、市当

局の仲裁で大抵のことは何とかなっていたよう

です。

  
  しかし、子供たちの世界は少しばかり違って

いました。

  カトリックとプロテスタントの子供同士のい

ざこざは、しばしば問答無用の暴力で解決を見

ることになりました。つまり子供同士の喧嘩で

す。

  特に母は、ヴァルドの子供がカトリックの子

供に虐められたなどという話を耳にしようもの

なら、すぐさま棒を取って仕返しに行くような

子供でした。近隣の同じ年頃のカトリックの子

供たちの中には、男の子を含め、母に泣かされ

たことの無い子供は一人もいなかったといいま

す。例え力で負けることがあったとしても、

「魔術でお前を呪ってやる」と言えば、男の子

でも大抵は泣いて帰ったそうです。ヴァルドの

女たちは全て魔女であるという迷信はまだ生き

ていましたから。逆にヴァルドの子供たちは全

員、母の手下のようになっていました。お陰で、

母は女の子には相応しくない渾名をつけられ、

周囲から恐れられるようになりました。アンジ

ェラ(天使)と名付けられた女の子はティグレ

(虎)と呼ばれていたのです。

  当然のことですが、母自身も随分殴られたり

したようです。が、母はただの一度も泣いたこ

とはなかったといいます。祖母から受継いだ憎

しみが、母の子供らしい部分をどこか心の奥底

に閉じ込めていたのかもしれません。

  子供だったとはいえ、母も随分無茶をしたも

のだと思います。

  ジュネーブがプロテスタント優位の社会だっ

たから何とかなったようなものの、これがカト

リック世界だったら、良くて修道院送り、悪け

れば殺されていたかもしれません。

  そんな娘の行動を祖母は大して咎めることを

しなかったどころか、娘を殴った子供の家に乗

り込んで、さらに事を荒立てる始末。娘に対す

る無条件の愛が祖母の目を曇らせ、それがさら

に娘の無茶に拍車を掛けていたのです。

  そんな母ではありましたが、神様も母を少し

は哀れに思っていてくださったのでしょうか、

大きな怪我や病気をすることも無く、幼い女の

子は若い娘へと成長していきました。成長する

につれ、母が祖母から受継いだもう一つの特徴

が次第にはっきりしてきました。母はいつから

か、美人として人々の口の端にのぼるようにな

っていたのです。しかし、本人はそんなことに

は全く無頓着で、ティグレという渾名の方が相

応しいお転婆であったことは相変わらずでした

が。