第3部完成版の部分公開に続き、
本日より、第4部 「栄光の帰還」 完成版の
一部公開を開始します。
月・水・金の予定で記事をアップします。
お付き合いのほど、宜しくお願いします。
さて、何からお話ししたらいいでしょうか。
そう、やはり祖母のことですね。
私の祖母アンナは、一六五五年、サヴォイア
公国ピエモンテ州にあるアーゾラという村から、
ジュネーブに移住しました。移住という言い方
は正しくないかもしれません。というのも、祖
母は迫害を逃れ、難民としてそこに辿りついた
からです。祖母は一六五五年に起こった「ピエ
モンテの虐殺」を生き延びました。それは文字
通り、命を掛けた脱出行だったのです。そこで
起こったことについては、これから話すことを
分かっていただくためにも、少し説明しておい
た方がいいかもしれません。
私たちヴァルド派は、カトリック教会から異
端の烙印を押されてからというもの、実に数百
年もの間、一方的な迫害を受け続けてきました。
それは、異端信仰が明らかになれば、使徒は即
座に火刑にされるという苛酷なものでした。し
かし約百年前、ルターによる宗教改革が起こっ
てからというもの、ヴァルド派は期せずしてプ
ロテスタント以前から存在したプロテスタント、
宗教改革の先駆と見なされるようになりました。
私たちは初めて世界中に自分たちの仲間を見付
けたのです。
今世紀始め、プロテスタントとカトリックの
間で、血で血を洗う宗教戦争が起こりました。
いわゆる三十年戦争です。戦争はプロテスタン
ト側の有利に終わり、以後、カトリック教会は
プロテスタントとの共存を認めざるを得なくな
りました。しかし、ヴァルド派は別です。カト
リック教会から見れば、ヴァルド派はどこまで
行っても異端でしかなかったのです。
ヴァルド派はピエモンテ山間部の隔離された
地区でのみ生存を許されていました。そこから
出て行かない限り、私たちは自分たちの信仰を
守りながら平和に暮らしていくことができまし
た。そこは「異端の谷」と呼ばれる場所でした
が、私たちにとっては使徒ペテロから直接福音
を授けられたという伝説の土地であり、他者の
理解を超えた誇りと愛着をもってその大地に暮
らしていました。しかし、宗教紛争は福音の谷
にも暗い影を投げ掛けました。
一六五五年春、異端根絶を目論むカトリック
の大軍が、突如、谷に襲い掛かり、ヴァルド派
は壊滅の瀬戸際に立たされました。しかし、こ
の危機はヴァルド派にとっても一大転機となり
ました。これまで一方的な迫害に耐えるだけだ
ったヴァルドたちが、自らの権利のためにあく
まで闘うという意思を初めて表わした事件でも
あったのです。
ヴァルドたちは勇敢でした。ただの農民たち
が正規軍を相手に一歩も退かない闘いぶりを見
せたのです。近隣諸国からもプロテスタントた
ちが応援に駆けつけました。フランスから来た
ユグノーの一人はこう言っています。
「ヴァルドが勇敢な人たちだということは知っ
ていた。しかし、私が見たのは、まさに獅子の
姿だった」
カトリック側の思惑とは裏腹に、ゲリラ戦を
展開して頑強に抵抗するヴァルドに思わぬ苦戦
を強いられ、戦況は長期化しました。その間に
「ピエモンテの虐殺」はヨーロッパ中の知る所
となりました。そして、英国で清教徒革命を完
遂した護国卿オリバー・クロムウェルの介入に
より、漸くカトリック軍は谷から手を引きまし
た。夥しい数の犠牲者を出しましたが、ヴァル
ドはこの忌まわしい事件を生き延び、辛くも故
郷の谷を守り抜いたのです。
その美しい谷のことを、幼い私は祖母の膝の
上で繰り返し聞きながら育ちました。そこでは
ヴァルドもカトリックも仲良く暮らしていたと
いいます。お互いの信仰を尊重し、日々の糧を
分かち合い、時には厳しい自然の試練に力を合
わせて立ち向かいました。その谷が福音の地だ
からこそ、それができたのだと祖母は言います。
夢見るように話す祖母の優しい声を聞きなが
ら、幼い頃の私は微睡みつつ、夢の中でまだ見
たことのない伝説の谷にいつしか迷いこんで行
ったものです。
屹立する山々は、
頂に雪を乗せて銀色に輝き、
岩を縫って流れる谷川は飛沫をあげて、
陽の光と戯れる。
水のざわめきは歓声を上げながら
木々を渡る風に呼び掛ける。
そして、語り伝えられる、谷に棲むという妖
精たちの物語――
危険が迫れば鳥に姿を変えて
声高く警告を発し、
満月の夜には、木の枝に座って
幸運の糸を投げ掛ける。
時には人に恋したり、
時には罪の無い悪戯をして
くすくす笑ったり。
特に私が好きだったのは、邪悪な魔女が飢え
た狼の群れを従えて、美しい谷を我が物にせん
としたけれど、妖精たちが兎や猫や梟に姿を変
えて狼たちと闘い、ついには追い払ったという
話です。斃れた仲間たちを乗り越え、傷つきな
がらも狼と果敢に戦う小さな動物たちの話に、
私は息を飲み、最後の勝利には大喜びして、祖
母にもう一回話してと何度もせがみました。
この話は、多分、土地に伝わる伝説を元に、
祖母が創ったものだと思います。というのも、
孫が喜ぶように、祖母は話す度に少しずつ話を
変えていきましたから。しかし、話の細部が変
わったとしても、祖母は物語をいつも同じ言葉
で締めくくりました。
「悪い魔女は谷を諦めたわけじゃない。いつか
再び谷を攻め落としてやろうと今でも機会を窺
っているのよ。お前が大きくなって谷に帰る時
が来たら、傷ついて泣いている妖精たちに変わ
って、今度はお前が谷を守るのよ」