セヴィニエ夫人の手紙 (最後の手紙) | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 
 
 唐突ですが、自分の手持ちの本に収録された手紙は、これが最後となりま
 
す。 この手紙から 19日後、1696年 4月 17日 にセヴィニエ夫人は亡くなりま
 
した。 
 
 経済的な問題もあり、最後は娘の許に身を寄せていたセヴィニエ夫人です
 
が、フランソワーズ自身が病に伏せていたため、愛する娘に看取られること
 
の無い最期でした。 
 
 自分自身のことは殆ど書いていませんが、他人の死を語りながら、自分の
 
死を想っているように感じられる手紙です。 
 
 来週は「セヴィニエ夫人の手紙」最終回として、筆者の雑感を書かせてく
 
ださい。 
 
 
以下、注です。 

 
 
ヴィンズ夫人
 
ポンポーヌ侯爵の義理の妹で、グリニャン氏のいとこにあたる。 セヴィニエ
 
家とポンポーヌ家は非常に親しい間柄で、セヴィニエ夫人はポンポーヌ家で
 
度々ヴィンズ夫人と顔を会わせたことから友人となった。 ヴィンズ夫人は唯一
 
の息子をステーンケルケの戦いで亡くしている。 

 
 
クーランジュ殿
 
1696年 3月 29日 (火)

 
 すべては何と儚 (はかな) いことでしょう。 私は嘆き悲しんでいます。 あの
 
ような素晴らしい御方が、――非の打ち所が無く、あらゆる若者たちの模範
 
とされていたブランシェフォートさんが、お亡くなりになるとは。 その評判
 
は揺るぎ無く、勇敢で知られ、ご自分に対しても申し分のない性格で (不機
 
嫌は悩みの元です)、家族想いで、お母様やお祖父様からの愛を感じ、愛で応
 
え、敬いました。 お母様やお祖父様の大切さをよく理解し、感謝の気持ちを
 
表わすことに喜びを覚え、与えられた好意の総てに報いました。 良識があり、
 
姿形は美しく、救いがたいほどに衝動的な今時の若者たちとは違って、若気
 
の至りとは無縁でした。 ――そのように立派な若者が、風に煽られた花のよ
 
うに一瞬にして消えてしまったのです。 戦さに出たわけでなく、これといった
 
原因もなく、ご病気でもなかったのに。 親愛なる従弟殿、お母様たちの
 
悲しみを想い、ここで私たちが何を感じているかを伝えようとするならば、
 
それを表現する言葉をどこで見つければいいのでしょうか。 私たちは手紙を
 
書くことはいたしません。 しかし、もし然るべき時が訪れたならば、私や娘
 
のフランソワーズ、(娘婿の)グリニャン氏があの方たちの癒やしがたい喪失
 
についてどのような気持でいるか、お話ししていただけないでしょうか。 ヴ
 
ィンズ夫人は唯一の御子息を失いましたが、(ブランシェフォートさんのご家
 
族には) 二人の御子息の内の一人が残され、見守っていくことになるのです。 
 
これ以外は申し上げることができません。 
 
 ギーズ夫人の神聖にして慎ましやかな埋葬の場に礼を捧げます。 王家の埋
 
葬を辞退したことは永久 (とわ) に輝く王冠に値します。 サンジェラン氏は素
 
晴らしく幸運な方だと思います。 そして貴男も。 慰める奥様がいらっしゃる
 
のですから。 サンジェラン氏には、私たちのために、貴男から宜しく言って
 
いただけないでしょうか。 ミラミオン夫人のことも申し添えねばなりません。 
 
教会の母たる夫人を失ったことは社会的な損失です。 
 
 さようなら、従弟殿。 私にはこの沈んだ語調を変えることができません。 
 
貴男には貴男のお祝い事があります。 サンマルタンへの楽しい旅は、貴男の
 
言うように深い悲しみと後悔が付いてまいりました。 現在、マルサン御夫妻
 
は繁栄を楽しんでおられますから、時々御夫妻とお会いする価値はあると思
 
います。 そして、御夫妻を御自分のお仲間の輪に加えてください。 私も貴男
 
を愛する人々の輪に入る資格があると思うのですが、私の場所はもう残って
 
いないのではないかと心配です。