セヴィニエ夫人の手紙 (序) | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
 
 以前、フランスの名著の数々は、かなりの部分、日本語で読むことが出来
 
ない、という怒りの記事を書きました。 その記事の中で 「そっちがその気
 
なら、セヴィニエ夫人の手紙を翻訳して、ブログにあげてやる」 と息巻いて
 
いましたが、それを実行に移そうと思います。 全部を翻訳しようと思ってい
 
るわけではないのですが、セヴィニエ夫人の手紙について、自分なりの解釈
 
をお伝えすると共に、日本ではあまり知られていないこの名著に少しでも興
 
味を持っていただけたらと思います。
 
 
 
過去記事 「娘離れできない母親の肖像 セヴィニエ夫人
 
 
 実は 「セヴィニエ夫人」 の手紙は、昭和 18 年 (1943年、戦時中?) に
 
翻訳されたものがあります。 この本は岩波文庫創刊60周年記念、復刊リク
 
エスト60冊に選ばれていますので、現在も容易に入手することが可能です。
 
 
   

しかしこの本、読んでみると、詳しい注釈こそ素晴らしいのですが、その
 
編集方針は頭を捻るような代物なのです。夫人の手紙を当たり障りの無い
 
エッセイのような捉え方をしていることに違和感を覚えるのです。 セヴィ
 
ニエ夫人の手紙には、そのような長閑な面も勿論あるのですが、自分にと
 
ってのセヴィニエ夫人は、十七世紀の突撃芸能リポーター。 そんなに取り
 
澄ましたものではありません。 セヴィニエ夫人は世間の注目を集めたあら
 
ゆる事件に首を突っ込んで、そのレポートを手紙にしたためました。 夫人
 
の手紙は当時から有名で、人々の間で複写、回覧されていました。 その影
 
響力は絶大で、後に王妃となったマントノン夫人は 「何か事件があると翌
 
日にはフランス南部まで知れ渡っている」 と言って、セヴィニエ夫人を
 
嫌っていたそうです。 当然、セヴィニエ夫人も自分の手紙が人々に読まれ
 
ることを意識していたに違いありません。
 
 
 なお、最初に断っておきますが、訳する場合には、書いてあることを忠
 
実に訳するつもりはありません。 自分で感じた雰囲気や、面白さ優先です
 
ので、間違っても、原文と比較対照などなさらぬよう。 適当に意訳されて
 
いるか、本当に意味が分かっていないか (これはかなりある)、好きに省
 
略したりしてするつもりなので。
 
 
 最初の記事は
明日に公開します。
 
 何気ない手紙の遣り取りですが、この後に起こったことを知った上で読
 
むと大変、興味深いものなので、是非、読んでいただければと思います。