第1部 「告白」、第4章「審問」、第16節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「しかし、予期せぬ訪問者はダミアーノ士だけではありませんでした。
 その訪問者は、エミリオ様の決意を根底から揺り動かしたのかもしれません」
(前節 より)
 
 
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第4章第17節は10月20日に投稿します。
 
 
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第4章 「審問 」
 
 
16. 見習修道士シルヴィオ、もう一人の訪問者を語る。
 
 
 
 夜もすっかり更け、蝋燭の明かりの中、私とエミリオ様が判決の日に向け
 
て準備を進めている所に、扉を叩く者がありました。 扉を開けると、そこに
 
立っていたのは審問所付きの刑吏のひとりでした。
 
「審問官様に会っていただきたい人がいるのですが」
 
 慇懃ながら、断られる可能性など頭から考えていない無遠慮な物言いでし
 
た。
 
「こんな時間にか?」
 
 エミリオ様は椅子から立ち上がると、警戒の色を浮かべて、扉の方に向き
 
直りました。
 
「へえ、どうも昼間の面会では都合の悪い事情があるようでして・・」
 
「一体、誰だ?」
 
「会っていただければ分かります。 会えば、審問官様も悪い気はしないと思
 
いますがねえ」
 
 その含みのある言い方が気に障りました。 エミリオ様が黙っていると、男
 
は顔に下卑た薄笑いを浮かべました。
 
「審問官様、一体、何を恐れておいでなので?」
 
「何も恐れてはおらぬ」 というエミリオ様の言葉と 「貴様、口を慎め!」 と
 
いう私の言葉が重なりました。
 
 エミリオ様は手で私を制して、男に言いました。
 
「いいだろう、その者を連れてこい」
 
 刑吏が回廊の闇に姿を消すと同時に、その闇の奥から、ひとつの黒い影が
 
音も無く進み出て、部屋の中央で止まりました。 全身が黒い外套に包まれ、
 
床に触れるほどの長い裾は足の動きを隠し、それはまるで床を滑るかのよう
 
でした。 顔は頭巾に深く包まれ、髪の一筋、爪の先さえも外からは見えませ
 
ん。 本当にそれは生身の人間なのかと思わずにはいられませんでした。 黒
 
い人影は、身じろぎひとつすることなく、そこに止まっていました。
 
 私とエミリオ様は立ったまま、互いに顔を見合わせ、次に一体、何が起こ
 
るのか、息を飲んで待っていました。 私は背中に抜身の短刀を隠し持ち、も
 
しもその黒い影がエミリオ様に襲い掛かったなら、間に入って相手と刺し違
 
えることも厭わない覚悟でした。 しかし、落ち着いて良く見ると、その人影
 
は刺客にしてはあまりにも小柄で、体付きも華奢であることが、外套の上か
 
らでも分かりました。
 
 突然、その黒い影はその外套を振り払うように脱ぎ捨てました。
 
 その下から現れた姿を見た時、私もエミリオ様も、あまりの驚きで後ろに
 
飛び退かずにはいられませんでした。
 
 頭巾から金色の髪が流れ落ち、光を放つかのような白い顔や肩に掛かりま
 
した。 黒い外套から解き放たれて、透き通るような白いチュニックが風のよ
 
うに舞い、娘の動きにつれ、その瑞々しい体にまとわりつきました。
 
 それはまるで、暗雲の中から突然、満月が姿を現し、辺りに光を投げ掛け
 
るかのようでした。 そのまま、娘はエミリオ様の前にひざまずき、その足先
 
に顔を摺り寄せんばかりにひれ伏しました。 しかし、憐れを誘うその姿にさ
 
えも、自らの存在で全世界をも変えられると信じる少女の、無邪気な傲慢さ
 
が見えていました。
 
「どうぞご無礼をお許しください。 私はコルラードの娘、アンナでございます」
 
「女、一体、どうやってここに入ってきたのだ」
 
 エミリオ様は及び腰になって、アンナからさらに一歩身を引きました。
 
「ああ、審問官様、今の世は、お金さえ出せば天国の門の鍵でも購えるのを
 
ご存知ないのですか? そうであれば、人によって立てられた扉ごときが、
 
どうして私の思いを阻むことができましょう」
 
「今すぐここを立ち去れ。 ここはお前の来る所ではない」
 
「いいえ、お願いを聞いていただくまで、それはできません、審問官様、ど
 
うぞ哀れな私めのお願いをお聞き届けください」
 
 娘が足にすがりつき、後ずさりするエミリオ様は、ついには壁に追い詰め
 
られてしまいました。
 
「お願いでございます、審問官様。 どうぞ、父をお助けください。 父もまた
 
人であるからには、間違いを犯すこともございます。 しかし、父は悪魔と取
 
引をするような人間ではありません。 これは何かの間違いでございます。 審
 
問官様のお力で、どうぞ審理をやり直してください」
 
「お前は我々の審問に疑いを挟もうというのか。 あの男は自ら悪魔との関係
 
を告白しているのだ」
 
「滅相もございません。 決して・・、決して審問官様の裁きに異議を唱えよ
 
うなどとは‥‥」 娘の両目からは大粒の涙が流れ、声がすすり泣きと混じり
 
ました。 「しかし、これは何かの手違いでございます。 例え人がどのように
 
言おうとも、私にとっては優しい、かけがえの無い父でございます。 幼い私
 
の手をひいて教会に通った、心正しいカトリック教徒です。 その父が悪魔に
 
魂を売るはずがありません。 お慈悲でございます。 どうぞ審問をやり直して
 
ください」
 
「言うな! お前は悪魔に加担するつもりか」 エミリオ様は娘を乱暴に突き
 
放し、その手から逃れました。 「それ以上言うなら、お前も無事ではいられ
 
ないぞ」
 
 突き飛ばされ、審問室の床に伏せった娘は、堪えきれずに泣きじゃくりま
 
した。
 
「私を審問に掛けて気が済むのなら、どうぞ、そうしてください。 審問官様、
 
私の身をどのようにでもなさってください。 しかし、父をお助けください。
 
あなたは罪の無い人間を処刑しようとしているのです。 この手紙を読んでい
 
ただければ、分かります」
 
 娘は一通の手紙を差し出しましたが、エミリオ様はその手を乱暴に払い除
 
けました。 手紙は床を滑って暗がりに消えました。 それは私にとっても見る
 
に堪えない、胸ふたがれる光景でした。
 
 娘は両手に顔を埋めて泣きながら、今一度、エミリオ様の足元にその身を
 
投げ出しました。
 
「審問官様、あなたの気が済むなら、私を好きにしてください。 父の代わり
 
に私をどうにでもなさってください。 お慈悲です。 その代わり、父をお助け
 
ください。 誰が悪いのでもありません。 これは何かの間違いなのです」
 
 エミリオ様は顔面を蒼白にして、暫く娘をじっと見下ろしていましたが、
 
私に向かって言葉を絞り出しました。
 
「シルヴィオ! 何をぼんやり見ている! この娘を外に連れて行け」
 
 私はその言葉で我に返り、ぎこちなく動き出しました。 床に広がったロー
 
ブを拾い、娘の肩に掛けてから、娘を立たせました。 結局、自分の力では何
 
も変えることができなかったという事実を受け入れようと、娘は歯を食いし
 
ばって泣き声を押し殺していましたが、涙は尽きることなく溢れ出し、その
 
白いチュニックの胸元を濡らしました。
 
 手を貸して娘の服装を整えると、娘は頭の天辺から足の先まで、再び黒い
 
ローブに包まれ、その姿が見えなくなりました。 ただ頭巾の奥から漏れる嗚
 
咽だけが、娘がそこにいたことを忘れさせまいとしているかのようでした。
 
 私が娘を連れて扉から出ると、中の様子を窺っていたのでしょうか、そこ
 
に先ほどの刑吏がいました。 殴ってやりたい気持ちを必死で堪えながら、娘
 
を安全に家まで送るようにと私が言うと、刑吏は事の成り行きが理解できな
 
いといった面持ちで頷き、娘を連れて廊下の暗闇の奥へと消えていきました。
 
端金で父親と娘の連絡を請け負う卑しい男と、最後の望みを絶たれた娘の後
 
ろ姿を、私は言いようの無い哀しさを噛み締めながら、いつまでも眺めてい
 
ました。
 
 
 
 部屋に戻ると、エミリオ様はもうそこにはいませんでした。 これには、自
 
分も少しほっとしました。 その夜だけは、もうエミリオ様と口を利く気には
 
なれなかったのです。 手紙を差し出した娘の手を乱暴に振り払ったエミリオ
 
様の姿が、思い出すまいとしても繰り返し脳裏に浮かんだからです。
 
 私は部屋の片隅に落ちていた手紙を拾い、それを読み始めました。 そこに
 
は、拷問で殆ど動かなくなった手で書いたと思しき、乱れた文字が並んでい
 
ました。
 
 
 
『娘よ、このような形でお別れを言うことになるとは、想像もできなかった。
 
私は異端の罪で処刑される。 もう二度とお前の顔を見ることができないと思
 
うと、耐えがたい思いがする。
 
 私は異端審問に掛けられ、その苦しさに耐えかねて、身に覚えの無い罪を
 
告白してしまった。 これまでの犯してきた自分の罪の数々をこういう形で償
 
うのだと考え、全てを諦めるしか無い。 しかし、覚えておいてほしい。 誰が
 
何と言おうとも、娘よ、お前の父は決して悪魔と契約を交わすような人間で
 
はない。 そして、許して欲しい。 お前の父が弱い人間であったことを。
 
 あの残酷な審問官がお前たちを巻き添えにしないことを願っているが、手
 
遅れにならない前にお母さんを連れて逃げてくれ。 お母さんのことをくれぐ
 
れも宜しく頼む。 お前は強い子だから、父がいなくとも、必ず立派に生きて
 
いけると信じている。
 
 お前たちのことをいつまでも愛している。 父より』
 
 
 
 私はその手紙を開いたまま、机の上に置きました。 その手紙をエミリオ様
 
にも読んでほしかったからです。 エミリオ様に対して疑いを持ったのではあ
 
りません。 ただ、避けることのできない結果についても、よく知ってほしか
 
ったのです。
 
 
 
 このマレドの街に来てからというもの、気分の良かった夜などひとつもあ
 
りませんが、その夜は特別に憂鬱な夜となりました。
 
 僧院に戻り、固い寝台の上で眠れない夜を過ごしていた私の耳に、一晩中、
 
自分の部屋を行ったり来たりするエミリオ様の足音が聞こえていました。 エ
 
ミリオ様の心の中にどんな思いが去来していたのか、私には知る術がありま
 
せん。
 
 その後、アンナというその娘は街から姿を消したと聞いています。 その娘
 
がどうなったのかについては、私には分かりません。 私もまた、街を追われ
 
ることになったからです。