第1部 「告白」、第4章「審問」、第15節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「今度こそ審問の総てが終わったものと、私は正直、ほっとしておりまし
た。 しかし、それも束の間のこと、一日も経たず、まだ全てが終わったわけ
ではないということを思い知らされることになったのです」 (前節 より) 
 

本ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
 
 
第4章第16節は10月13日に投稿します。
なお、10月10日には、時代背景として、
 
「神の預言か、狂信の少女か、ジャンヌ・ダルク (2) 」
 
を投稿します。
 
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
( 第一章の最初から読む )
 
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第4章 「審問 」
 
 
15. 見習修道士シルヴィオ、予期せぬ訪問者を語る。
 
 
 
 被告たちを確実に処刑すべく、夜を徹して手続きを急ぐ私たちの所に、ひ
 
とりの訪問者がありました。 訪問というよりも、息を切らせて部屋に飛び込
 
んできたといった方がいいかもしれません。
 
「これは一体どうしたことだ!」
 
 入ってくるなり大声を発したのは、エミリオ様がマレドの異端審問官とな
 
るために尽力してくださったダミアーノ士でした。 私も前の修道院で、エミ
 
リオ様を訪ねて来られたダミアーノ士と会ったことがあります。 ドミニコ会
 
修道士としては、人好きのする穏やかな印象のある方でしたが、その時は、
 
悲壮感を滲ませ、走ってここまで来たのかと思うほど顔が紅潮し、額には汗
 
を浮かべておりました。
 
「これは、ダミアーノ士。 遠路はるばるおいでいただき恐縮です。 今日はど
 
うなされましたか? シルヴィオ、何かお飲物を・・・」
 
 エミリオ様はゆっくり席を立つと、落ち着き払ってダミアーノ士に椅子を
 
勧めました。
 
「なに暢気なことを言っている! 飲み物なんかどうでもいいから、そこに
 
座れ、シルヴィオ、お前もだ。 ――ここで何が行われているかを聞いて、大
 
慌てで出立してきたのだぞ!」
 
「と申しますと?」
 
「審問のことに決まっているだろう。 市長を含む四人を審問に掛けて有罪に
 
したというのは本当か」
 
「その通りです」
 
「一体、何を考えている! 市長のコルラードは、サヴォイア家と通じてい
 
るばかりか、カトリック教会からの信頼も厚い。 この審問のことでは、両方
 
から不満の声が上がっているのだ。 いきなり市長を異端審問に掛けるとは乱
 
暴にも程がある。 お前のしていることはカトリック教会の権威をも失墜させ
 
かねないことだぞ。 今からでも遅くない。 すぐに釈放するんだ」
 
「残念ながら、神の名にかけてそれはできません。 被告たちは悪魔に魂を売
 
った背教者であると確信しております。 本人が自白しましたから、これは間
 
違いのないことです」
 
 ダミアーノ士は言葉を切って、エミリオ様の顔をまじまじと見詰め、「お
 
前がそのようなことを言うとは思わなかった」 と呟きました。 「ジョットー
 
は前の市長を異端審問に掛けて処刑してしまったが、お前はジョットーとは
 
違うと思っていた。 だからこそ、お前をこの異端審問所に赴任することに尽
 
力したのだ。 ――人は拷問されれば何だって言う。 お前はこれまで、自分の
 
目でそれを見てきたはずだろう」
 
「ダミアーノ士ともあろうお方が滅多なことを仰いますな。 今の言葉は聞か
 
なかったことにいたします。 私は異端審問の手続きに則って審問を進めまし
 
た。 何一つとして異常なことはしておりません」
 
 ダミアーノ士はがっくりと椅子に体を投げ出しました。
 
「自分は取り返しの付かない間違いを犯したのか?」 ダミアーノ士は両手に
 
顔を埋めて呻くように言いました。 「教えてくれ。 お前をマレドの異端審問
 
所に派遣したのは、とんでもない間違いだったのか?」
 
「あなたは何も間違っておりません。 時が経てば分かることでしょう。 あの
 
反キリストどもは心正しいキリスト教徒を無実の罪で陥れ、異端審問で処刑
 
しました。 私は教会の誤りを認め、犠牲者の名誉を回復するつもりです」
 
 何気なく話されるエミリオ様の言葉に、ダミアーノ士は椅子から飛び上が
 
るほどに驚きました。
 
「何だと? 今、何と言った? 教会の誤りを認めるだと? お前のどこに
 
そんな権利がある。 法王にでもなったつもりか! 勝手にそんなことをすれ
 
ば破門――いや、お前自身が異端審問に掛けられる可能性だって・・」
 
「ご忠告は有り難くお受けします。 しかし、自分の保身のために非道を見逃
 
すことはできません。 私はキリスト教徒としてやるべきことをします。
 
 ――必ずやります」
 
「エミリオ、お前は誤解している。 私はお前を非難するためにここに来た
 
のではない。 その反対だ。 お前を助けたいと思ったからここに来たのだ。
 
 ――しかし、私の話を聞く気が無いのであれば、どうすることもできん。
 
この後、何が起こっても、それはお前が自ら招いたことだぞ、それをよく肝
 
に命じることだ」
 
「ダミアーノ士。 お心遣いには感謝いたします」
 
 手を合わせ、静かに顔を伏せたエミリオ様を、ダミアーノ士は暫く無言で
 
眺めていました。
 
「話はここまでらしいな。 残念だ・・」
 
 ダミアーノ士はそう言って席を立つと、入ってきた時とは別人のように頭
 
を垂れ、静かに部屋を出て行こうとしました。
 
 が、突然、扉の所で振り向きました。
 
「まさか、――まさかとは思うのだが、お前たちがここに来て、程無くして
 
ジョットー殿が窓から転落して亡くなられたと聞いたが、それはただの偶然
 
なのであろうな」
 
「失礼ながら」 エミリオ様は顔を伏せたまま答えました。 「何の話をされて
 
いるのか分かりません」
  
「そうか、それならいい、――そうだな、まさかそんなことがあるはずは・・、
 
いや、いいんだ、今の質問は忘れてくれ‥‥」
 
 暗い廊下の奥に消えていくダミアーノ士を、私たちは黙って見送りました。
 
 しかし、予期せぬ訪問者はダミアーノ士だけではありませんでした。
 
 その訪問者は、エミリオ様の決意を根底から揺り動かしたのかもしれませ
 
ん。