アメリカ・セーラムの魔女事件 | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録



アルプスの谷 1641

 
           
 
 1692 年の冬、マサチューセッツ州、セーラムという村で事件は起こりまし

 
た。 二人の少女、ベティ・パリス ( 9才 ) と、そのいとこ、アビゲイル・

 
ウィリアムス ( 11才 ) は、突然、体を捻じ曲げ、叫び声を上げ、物を投げ

 
つけ、床を這いまわる、という奇妙な発作を起しました。

  
 心配した両親は医者に診せますが、身体的な問題は何も見つかりません。

 
時を同じくして、他の若い女性たちが次々と同様の症状を呈したため、医者

 
が魔術の影響を示唆しました。

  
 ここから大規模な魔女狩りが開始されます。

  
  

 1693 年に事件が収束するまでに、

 

 
 200 名が告発され、

 
 内 150 名が投獄、

 
 内 24 名が絞首刑、

 
 少なくとも 5 名が獄死、

 
 1 名は石を体に積まれるという拷問で圧死、

 
 さらに、魔女が変身していると疑われた犬が 1 匹、絞首刑となりました。

 
  

 歴史の浅いアメリカで魔女狩りというのは、意外に思われる方もいるかもし

 
れません。 しかし、新大陸アメリカにも少なからぬ例が存在します。 中でも、

 
規模や影響の大きさから言って、セーラムの魔女事件に並ぶものはありません。

 
 セーラムの事件を主導したのは清教徒たちです。 カトリック世界では魔女狩

 
りは教会の異端審問の枠組みで行われたのに対して、プロテスタントの魔女狩

 
りが民衆主導で行われたということが解ります。 しかし、枠組みの違いはど

 
うであれ、やっていることに大した違いはありません。

 
 犠牲となった人々は、少女たちが名前を出したとか、悪夢や発作時の幻影の

 
中にその人の姿が見えたといった理由 ( Spectral evidence ) で有罪とされま

 
した。夢に出てきたから死刑などと言われたら、たまったものではありません

 
が、ここで行われたことは、まさにそういうことでした。

 
 真っ先に魔女として告発された三人の中に、ネイティブ・インディアンの奴

 
隷、ティチューバという女がいます。 彼女が、日本でいう "こっくりさん" の

 
ような交霊会を行っていたために、真っ先に告発されたとされていますが、こ

 
れは後の創作であるようです。 彼女が民間伝承に通じていて、日頃から悪魔の

 
誘惑等の話を少女たちに語ってはいましたが、人種的偏見の犠牲になったとい

 
うのが真実のようです。

 
 しかし、1693 年になって事態は変化を見せ始めます。少女たちの告発に疑

 
問が持たれるようになり、さらに州知事フィップスの介入により、被告は次々

 
と無罪となりました。3月までに投獄されていた人々の大分部が釈放され、事件

 
は終焉を迎えました。

 
  

 少女たちの発作の原因は分かっていませんが、LSDの原料ともなる菌に

 
侵されたライ麦のパンを食べたことから来る麦角病、或は、閉鎖的な共同体

 
の内外に高まる緊張から来る集団ヒステリー等が疑われています。

  
  

 セーラムの事件の重要な点は、その規模の大きさから人々の注目を集め、事

 
件についての激しい論争が起こったということです。 特に Spectral Evidence、

 
被害者の幻想で被告を有罪とすることの是非が問題となりました。

 
「無実の者一人を死刑にする位なら、魔女百人を生かしておいた方がまし」

 
 こう書いたトーマス・ミュールは、12ヶ月間投獄される羽目になりました。

 
一方で、織物商人であるロバート・カレフが裁判を詳細に調べて、批判の書

 
物を著しています。 ( この書物はアメリカではなくイギリスで発表されました )

 
 裁判の殆どに立ち会った牧師ジョン・ヘイルは、死後、発表された文書の中

 
で、後悔の言葉を述べています。

 
「時代の闇、少女たちの嘆きや苦悶、為政者の要求はそれほどまでに強く、

 
 我々は暗雲の中に道を見失った」、

 
 
 

「セーラムの魔女事件は神権主義を打ち砕く岩となった」 (George Linoln)

  
 

 
 時は 17 世紀末、時代は変わりつつありました。

 
 セーラムの魔女事件はアメリカ最後の魔女狩りとなったのです。

 


アルプスの谷 1641

                SARAH WILDES 1962年7月19日 絞首刑