第1部 「告白」、第1章「マレド群像」、第10節 (2) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録



( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )


今回は魔女として捕らわれたマルティーナの証言の続きとなります。


続きは2月25日にアップします。


なお、番外編として、前回、三十年戦争の記事を書きましたが、


これについて書かれた小説のご紹介を2月21日にアップしたいと思います


ので、こちらも併せてご覧いただければ幸いです。



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10. マルティーナ (2)


1641年当時、25歳。教師。その美しさばかりでなく淑女としての評判も高かった。恋人との


婚約も整い、前途を祝福される時、突然、魔女として告発される


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 「これでお前が魔女であることが証明された。よもや、正義の手から逃れら


れるとは思うまいな。お前は悪魔に自分の魂を売った過ちを認め、父なる神


の前で悔悛するか」


 ジョットーの言葉は、感情の欠片も入り込む余地はなく、まるで芝居の台


詞を言うかのように淀みがありません。しかし、自分の体が如何に反応しよ


うとも、悪魔と契約を結んだなどと認めることができるでしょうか。


「違います。私は悪魔のことなど何も知りません」


かすれるような声で私はなおも抵抗しました。これほどの恥辱を受けて、な


おも生き延びようとする自分の気持ちが分からないとさえ感じましたが、愛


する人や父母、それに必ずや自分の無実を信じてくれる人のことを思えば、


簡単に屈してしまうわけにはいかなかったのです。


「一体、私が何をしたというのです!」


「ある者がサバトに加わっているお前を見ているのだ」


「それは人違いです、私ではありません」


「なるほど、認めないのであれば仕方がない。拷問に掛けるまでの話だ。し


かし、すぐにもお前は自分の罪を告白させてくださいと、その頭を床に擦り


付けて、懇願することになるだろう、二三日、獄で頭を冷やすがいい。連れ


て行け」


 刑吏は私を引き摺るようにして、暗い通路を通って行きました。その通路


の片側には、壁にも扉にも隔てられることなく小部屋が繋がっていました。


そこには、まるで私に見せ付けるかの如く、使用の方法も想像できない、し


かし、確実に使用されているに違いない数多の器具が無造作に配置されてい


ました。天井から鎖で吊るされた鉄輪、床に置かれた鉄の塊、馬車の車輪、


水車、木製の寝台、巨大な漏斗、三角形の角材を並べた台。ある部屋は椅子


と机があるだけでしたが、椅子の手足を置く部分には鉄輪が取り付けられて


おり、机の上には工具が散乱していました。至る所、どす黒い染みが乾かな


いまま付着し、生臭い臭気を発し、黒い陰を投げ掛ける様は、不吉なことこ


の上なく、まるで悪夢に迷い込んだかのようでした。 私がその不気味な光


景を目に焼き付け、やがて来る運命を想像させるべく、刑吏は時折、立ち止


まりながら明らかにゆっくりと進んでいきます。そして通路の終わり、鉄格


子の嵌った部屋に私を放り込みました。彼らの姑息な計算は、その日に限っ


て言えば、何の効果もあったとは思えません。私の全身は血に染まり、形が


変わるほどに腫れ上がっていました。その苦痛に身悶えしている私に先のこ


となど考える余裕は無かったのです。


 翌日、冷たい石の床に伏せっている私の前に一通の手紙が置かれました。


それは私の婚約者、レオからの手紙でした。私は一筋の光を見た思いで、急


いで手紙を開きました。あの方は必ずや私を信じて助けの手を差し伸べてく


れるはず、このような愚かな過ちを正さずにはおかないはず。私は一瞬たり


とも、それを疑ったことはありませんでした。


「マルティーナ、 自分は何と愚かな男なのだ。お前のような女に欺かれ、た


とえ一瞬でも心を許していたなんて」殴り書きのような乱れた文字の一文を


見て私は雷に打たれたかのように感じました。「しかし、結婚する前にお前


の正体が暴露されたことは不幸中の幸いだった。お前との汚らわしい過去は


忘れ、自分はまた気持を新たにして生きていくことにした。だから、お前も


私のことは二度と考えないでくれ。お前のような魔女の口から自分の名前が


発せられるなど、考えただけでも虫唾が走る」


 もう、私の目から涙が流れることはありませんでした。絶望と怒りが私の


心を石に変えてしまったのです。この手紙を書いた同じ指は、何度、私を優


しく愛撫したことでしょう。このような残酷な言葉を吐く同じ唇は、何度、


私に甘い口付けをしたことでしょう。それなのに、あのお方、いや、あの男


は、自分の腕の中にいた恋人の正体が見抜けなかったなどと言うのです。何


と情けない言葉でしょうか。自分の許婚が殺されるかもしれないという時に、


あの男は自分の身の安全ばかりを考えているのです。


 自分の外側からも内側からも全ての音が消え、心がしんと澄み渡りました。


 ――自分も同じことをしたかもしれない。


 立場が違っていたら、自分も同じことをしていたかもしれません。いや、


間違いなくそうしていたでしょう。あの情けない男に期待するというのは酷


というものです。私はあの男に一体何を期待していたのでしょう。あの残酷


な審問官に異議を申し立ててくれるとでも? あの男にそんな度胸が無いこ


とぐらい、私は知っていたはずです。私は自分の恋人をちゃんと見ていまし


た。彼の正体が英雄などではなく、どちらかといえば母親のお乳を吸ってい


る方がお似合いの男だということぐらい、本当は分かっていたのです。


 ――もう誰も私を助けてはくれない。


 父や母も、今や危ない立場に立たされていることでしょう。もう誰も頼る


ことはできません。自分の力でこの危機を何とかしなければなりません。し


かし、狭い牢獄に閉じ込められた私に何ができるというのでしょう。拷問が


始まれば、私のような女が一分たりとも持ちこたえることができるとは思え


ません。あの恐ろしい拷問の道具を見せられただけで、大抵の人間ならどん


な罪でも認めてしまうでしょう。私は悪魔と契りを交わしたと認めなければ


ならないのでしょうか。拷問を受けたとしても、どうしてそんな恐ろしいこ


とを認められるでしょうか。


 この審問が不当で、馬鹿げた茶番であると人々に訴える方法は無いものか、


私は考え続けました。サバトに加わっているのを見たなどという、どこの誰


が言ったとも分からない冗談のような告発一つで、何の罪もない人間が生き


たまま焼かれようとしているのです。これが全くの間違いだと人々に分から


せるにはどうしたらいいのでしょう。もしも私が、あの審問官の母親や刑吏


の娘や官吏の女房がサバトの中にいたと喋ったら、やはり彼らは魔女として


捕らえて、審問に掛けるのでしょうか。


 ――その時、ある考えが私の心に忍び込みました。


 もしも、この街の男性たちが憧れる歌手のジュリエッタがサバトにいたと


私が告白したら? 誰からも尊敬される街の教育長であり良妻賢母で名高い


マルタがサバトにいたと言ったら? 芸術の庇護者として知られる、あの貴


婦人のロレーラがサバトにいたと言ったら? 陽気で人気者のイルヴァがそ


こにいたと言ったら? たとえ審問官といえども、彼女たちを捕らえること


はできないでしょう。あのジョットーがそうしようとしても、街の人々がそ


んなことを許すはずがありません。その時、人々は気が付くはずです。


 ここで間違ったことが行われている、このままではいけない、と。


 審問が始まったら、私は審問官の前に平伏し、こう言うのです。「私が間


違っておりました。総てを告白しますのでお聴きください」と。