第1部 「告白」、第1章「マレド群像」、第8節~第9節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録


( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )


続きは2月11日にアップします。


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8. ドナテッラ


マレド市市長マウリツィオの妻、そして、エンリコの母。


異端審問判決の日、自宅にて。


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 その日はドミニコ会修道士のセルジョ士が訪ねて来られました。夫から、


セルジョ士が来ることは聞いていましたので、驚くことはありませんでした


が、そうでなければ、やはり珍しいことでしたので、とても戸惑ったに違い


ありません。この家に修道士の方が訪ねてくるなど、私の知る限りでは一


度もありませんでしたから。


 セルジョ士には、エンリコの事を始めとして、いろいろと相談したいこと


はあったのですが、私は失礼を詫びて私室に下がらせていただきました。


いつにもまして体の具合が悪く、朝から起き上がれずにいたのに加え、頭


の中を去来する暗い思いに、今にも押し潰されそうだったからです。


 その日、私は朝から家の中に独り取り残されていました。エンリコは友人


と連れ立って出掛けていきました。友達の家に行くと、嘘をついて。私は何


も言いませんでしたが、自分の息子の考えていることぐらい分かります。魔


女裁判に行ったに違いありません。あの子は母親思いの子なので、私に心


配を掛けまいとしてそんな嘘を言ったのかもしれませんが、嘘をつかれてい


ると思うと耐え難い思いがします。それが見え透いた嘘ならなおさらです。男


の子は成長すれば母親のことなど忘れてしまうものとは分かってはいますが、


今の私には息子が全世界です。私には最早、息子の幸福を願う以外、何の


望みも残されてはいませんでした。まして、悪魔に魂を売ってしまった女たち


の恐ろしい末路など知りたくもありません。


 夫はきっとあの女の所でしょう。 


 私はあのフォスカリ夫人ほどには美しくはなく、またあの方のように機知


に富んだ会話も出来ません。最近は体調も優れず、こうして床に臥している


時間が長くなりました。夫が私を疎んじるのも無理の無い話なのかもしれま


せん。それでも、夫が時折私に投げ掛ける、軽蔑するかのような一瞥には耐


えられません。仮にも私は妻なのですから、然るべき愛と尊敬を求めても罰


が当たることは無いはずです。


 夫は新しい世界について語ろうとしますが、私のような女には夫の言うこ


とが理解できません。なぜ世界は変わらなければならないのでしょうか。私


はただ、これまで続いてきた平穏が、これからも続くことを願っているだけ


なのです。多分、夫には私のような人間が退屈なのでしょう。良き妻、良き


母親になろうと努力はしたのですが。


 今となっては息子のエンリコだけが私の救いです。不穏な影が街を覆い始


めた頃、息子のエンリコは床に臥せている私の許にやってきて、涙ながらに


言いました。自分は世界を良くするために闘いたい、主のお言葉でこの世を


遍く照らしたい、そのためにもドミニコ会の修道士になりたいのだと。私は


息子に微笑み掛けて言いました。私のことは気にしなくても良い。お前は正


しい心を授かっているのだから、その声に従って生きていきなさい、後は主


がお前を導いてくださるでしょう、と。


 私は知っています。


 自分の身体の内を侵していく闇のことを。もう自分の命は永くはないでしょ


う。


 私は夫にも息子にもこのことを言うつもりはありません。誰にも同情を強


いることをしたくはないのです。私がこの世を去った後になって初めて、夫


は、自分の妻が考えていたよりも強い人間だったということを知ることでしょ


う。その時、夫が何を感じるか、それはもう私の預かり知らぬ所です。


 もはやこの世に未練はありません。私の魂が神様の下で安らげるよう、息


子が祈ってくれるでしょう。神様、どうぞあの子を悪魔の手からお守りくだ


さい。



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9. 修道士セルジョ


ドミニコ会修道士。


マレド市市長マウリツィオが信頼を置く知人


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 「生憎、夫も息子も出掛けておりまして」


 マウリツィオの家を訪ねると、そこには奥方しかいませんでした。自分の


間の悪さにいささか呆れながら、再び出直そうとすると、奥方は強く私のこ


とを引き留めました。


「でも、すぐに戻ると思います。どうぞ客間でお待ちください。息子のこと


では、私もいろいろとお聞きしたいことがございますので。今、お茶の用意


をいたします」


 奥方はひどく顔色が悪いようで、それがとても心配でしたが、言葉の端々


には、息子を案ずる母親そのものの、強い感情が現れておりました。その言


葉を無碍にするのもどうかと思ったので、私は待たせてもらうことにしまし


た。が、この先に待っていることを考えれば、とても寛ぐ気にはなれません


でした。


 奥方がお茶の支度のために奥に行ってしまうと、私一人だけが客間に残さ


れました。静まりかえった部屋の中で趣味の良い調度品に囲まれているのは、


何とも不思議な感じがしました。普段なら、むき出しの石の壁と粗末な寝床


しかない僧院の一室が自分の部屋なのですから。


 しかし、その贅沢な静寂の中にも自分は何か白々しい、冷たいものを感じ


ずにはいられませんでした。世俗の世界で成功した父親、宗教的な理想主義


に走ろうとする息子、そして、その息子に盲目的な愛情を捧げる母親。この


瀟洒な部屋の中で、一体、どれだけの残酷な言葉が、時には怒鳴り声となっ


て交わされたことか、市長であるマウリツィオが、自分のような者に息子の


ことを頼んでくる程、この家族が追い詰められているとは、一体、誰が想像


できるでしょうか。百年一日の如く、何事も起こることのない修道院生活で


すが、そのうんざりするような単調さが、こんな時には誠に神の恩寵である


かのように感じます。


 息子に自分の跡を継がせたいと願う父親。それを顧みず、自分の理想を追


い求め、父親を受け入れようとはしない息子。自分はそれに対して何か掛け


る言葉を持っているのでしょうか。


 ドミニコ会に入会したいというエンリコに自分が何と言えばいいのか、そ


の決心に従って修道院に連れ去っていいものか、本当のことを言えば自分に


は分からないのです。マウリツィオは、息子のことは私に任せたいと言って


くれましたが、彼が望みを捨てていないことは、――最後には自分の所に戻


ってくることを望んでいることは、明らかでした。マウリツィオの信頼は嬉


しくとも、こんな時に自分がどうすればいいのか、聖書の知恵を持ってして


も容易に答えられるものではありません。


「今日のような日には、マウリツィオやエンリコも家に居るのかと思ってい


ましたが、どうも私は鈍かったようですな」お茶を持って部屋に入って来た


奥方に、私は言い訳がましく言いました。「もしかして、エンリコやご主人


は‥‥」


「私には分かりません。主人が裁判に行くとはとても思えませんし、エンリ


コは友達の所へ行くと言って、家を出ていきましたが。貴方様は裁判へは行


かれないのですか?」


「異端審問は私の仕事ではありません、――大変、有難いことに。神に祈り


を捧げることと、神の御言葉を人々に伝えることだけが、私の仕事でして」



 ドミニコ会修道士ジョットーが、魔女として告発された女たちに判決を下


そうとしていました。しかし、結果を待つまでもありません。女たちは間違


いなく火刑に処されることでしょう。エンリコはこのことを当然だと考えて


いるようです。ここでも一抹の不安を覚えずにはいられません。私もドミニ


コ会修道士の一員であるからには、滅多なことは口にできませんが、しかし、


自分はマルティーナたちのことも知っています。マルティーナは美しく、聡


明な娘でした。この異端審問が正しいものであるとは、自分にはとても信じ


られなかったのです。