第1部 「告白」、第1章「マレド群像」、第7節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

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続きは2月4日にアップします。


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7. マウリツィオ


  マレド市市長。学友と共に刑場に向かったエンリコの父親。


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 私は今日、息子のエンリコをひどく叩いてしまった。一時的な感情で息


子を叩いてしまったことを今はとても悔やんでいる。が、自分の息子なの


に、これほどまでに気持が通じないものなのかという落胆は押さえようも


ない。


 それは夕食の時間だった。エンリコが、自分の恩師でもあるはずの教婦


長のマルタさんを指して、あの魔女が火炙りになるのはいい気味だという


ような物言いをしたのだ。自分の息子のあまりに情けない言葉に、一瞬、


我を忘れ、「お前は自分があの方にどれだけ世話になったか忘れたか」と


怒鳴って、頬を叩いてしまった。「あなたはなぜ魔女の味方をなさって、


子供を叩くのですか」と母親が叫んだ。気が付けば、一家の主人である自


分が、とんだ間抜けのような有様だ。エンリコは目に冷たい光を漲らせて、


私を睨んでいたが、そのまま部屋から出て行ってしまった。



 あの狂信的な審問官ジョットーが来てからというもの、街は異様な緊張


感に晒されている。人々は疑心暗鬼に捕らわれ、密告や裏切りが横行する。


これまでも何度か審問に異議を申し立てたり、不当な告発に対しては被告


人を逃がす手助けをしたりしたものの、こんなことをいつまでも続けては


いられない。このままいけば教会との対立になるかもしれぬ。自分もまた


カトリック教徒なのだから、決してそんな事を望んでいるわけではないの


だが。


 教会が異端に対して厳しい態度を取るのは理解できないことではない。


教祖を名乗って民衆を扇動するような輩は、どんな時代にも存在するもの


だ。しかし、ヴァルド派のような者たちを一方的に弾圧するのは、疑問を


感じずにはいられない。彼らは四百年の歴史を生き抜いた人々だ。カトリ


ック教会を批判することはあるかもしれないが、誰の邪魔もせず、平和を


愛し、人々の役に立とうとしているではないか。なぜそっとしておいてや


らないのだ。異端と言われながら、四百年も生き長らえたのは、理由のな


いことではない。教会への批判も、考えてみれば無理のないことだ。神に


仕えるはずの者たちは奢侈に耽り、宮殿と見紛うような寺院を立てるため


に民衆に重税を課し、免罪符を乱発して金をかき集める。一体、いつから


罪を金で贖えるようになったのだ。ヴァルドならずとも、文句のひとつも


言いたくなるというものだ。


 しかも、異端審問そのものは、時間を経るに従って迷信や妄想と混じり


合い、逸脱を重ねた結果、その本来の意味さえ曖昧になり、魔女狩りの狂


気に堕してしまった。その中心にいるのが、古くはベルナール・ギーやジ


ャン・ボダン、そして、この街の審問官ジョットーのような人物だ。自分


の周りで、異端ばかりか、街の大切な人々までも一方的に処刑される日が


来るとは思っていなかった。間違っているのはジョットーの方だと確信し


ている。彼女たちはその良心に一点の曇りもないカトリック教徒たちでは


ないか。しかし、疑心暗鬼に捕らわれている街の人々がその誤りに気付く


ことを期待することは最早できまい。


 しかし、息子のエンリコがドミニコ会に入会すると言うのを聴いた時に


は、自分の耳を疑った。これも街を覆い尽くす狂気と関係があるのだろう


か。自分のような人間にはまるで理解できない話だ。信仰に人生を捧げる


のも結構なことだろう。闘うキリスト教徒として、ドミニコ会の修道士た


ちを尊敬もしている。しかし、それが自分の息子の進むべき道だとは思え


ない。時代は変わる。フィレンツェやベネツィアのような都市に行けば、


魔女狩りなどというものは、野蛮な田舎者のやることだと、平然と口にす


る者がいるばかりか、それを咎められることもない。なぜもっとこの広い


世界を見ようとしないのか。それができないということは、それがその者


の才能の限界を意味しているのか。そして、それが自分の息子の姿なのだ


ろうか。


 幼い頃のエンリコはよく笑い、それは幸せそうな子供だった。しかし、一体


何の因果なのか、そんなあの子を別人に変えてしまうようなことが起こった。


あの子がくる病に掛かっていることが分かり、傍目にも判るほどに背中の骨


が変形した時、私や妻はどれほど心配したことだろう。幸いなことに、よい医


者に恵まれたお陰で病気はそれ以上進むことはなく、エンリコは普通の子供


と同じように生活することができるようになった。多少、背中に変形は残ったが、


少し姿勢が悪い程度にしか見えなかった。これ位の体格の歪みなど大したこと


ではないと、あの子にも、そして、自分自身にも繰り返し言い聞かせてきた。


 しかし、恐れていたことが起こった。


 学校に通うようになって暫く経った頃、あの子を指差し、その体の歪み


を笑い者にする子供たちが現れたのだ。子供とは残酷なものだから、こん


なことはありふれた話なのかもしれない。しかし、こんな嘲りを受けたの


なら、誰でも世界から切り捨てられたように感じることだろう。学校での


ことを一言も親に話すことはなく、あの子はただ黙って耐えていた。私


たちがそれを知ったのは、教婦長のマルタさんが話してくれたからだった。


 子供が苦しんでいる時、親ならどういう態度を取るべきなのか、自分に


は今でも分からない。何も言わない息子の前では、私は何事もないかのよ


うに振る舞い続けた。本当の世界が敵意に満ちていようとも、あの子が幸


福だった時と何も変わっていないかのように見せ掛けようとした。そうする


他なかったのだ。


 息子を救ってくれたのはマルタさんだった。あの素晴らしい女性は、そ


の柔和な表情からは想像もつかないことだが、息子を指差した子供たちを


前に立たせて、今度、同じことが起こったら、絶対に許さないと言ってく


れた。その剣幕に子供たちは震え上がったという。エンリコはこのことを


知らないが、その後二度と、あの子を指差して笑うような子供は現れなか


った。


 これで万事は丸く収まると思っていたが、結局、そうはならなかった。


成長するに従って、息子の表情には影が差し、目には冷たい光が宿るよう


になった。勉学や信仰の世界に閉じこもり、時に脇目も振らず本に読み耽


る情熱を、私は父親として自分に都合良く解釈し過ぎていたかもしれない。


しかし、気が付いた時には遅かった。まさか、自分の息子が、恩人である


マルタさんを魔女と言って罵るのを聞くことになろうとは。


 自分は認めなくてはならない。息子の心は、その体と同様に歪み、その


目は正しく物を見ることができないのだ。


 こんな世界に生きているからこそ、私は息子に教えたかった。生きるこ


との喜び、そして、闇や恐怖ばかりではない、世界の美しさを。人生を楽


しむことに何の罪があろう。ただ、そこに執着することに罪があるだけな


のだ。ビンディ家の末裔として生まれた息子には、私が与えてやれるもの


なら、財産であれ、名誉であれ、何でも与えてやるつもりだった。しかし、


いつの間にか、まるで乾ききった砂のように息子は自分の手をすり抜けて


いってしまった。修道士になろうとする息子を無理に自分の思う通りの道


に進ませようとするのも、もはや詮の無いことと諦めるしかない。



 こんな時に、せめて母親が何か言ってくれるのであれば、少しは物事も変


わっていたのかもしれない。しかし、母親は、私の考えなど意に介する様


子もない。息子を崇拝せんばかりにして、エンリコのすることなら何事に


も諸手を上げて賛成するような有様だ。あれは私への当て付けだろうか。


私が失望する顔をするのをそんなに見たいということか。