第1部 「告白」、第1章「マレド群像」、第6節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )



続きは1月28日にアップします。


-------------------------------------------------------------------


6. テオドロ


  マレド市、市会議員


  表向きは市長マウリツィオの友人。フォスカリ夫人のサロンに出入りする人々の一人。


-------------------------------------------------------------------


 夜が更けても気温はあまり下がらず、少しの風も通うことはない。ベランダ


に出て外の空気に触れていると、こんなに醜い俺でも、柄にもなく官能的な気


分になろうというものだ。フォスカリ夫人が大事に育てている薔薇の香りが肌


にまとわりつき、窓から洩れる光がその真紅の花びらをぼんやりと照らす。街


を覆う不穏な空気さえ無ければ、多分、こんな夜は恋人同士にぴったりの夜に


違いない。俺のような人間には最早、色恋はどこか遠い世界のお伽話にしか


過ぎないが。


 外の喧騒もこの日ばかりは恐怖に静まり、フォスカリ夫人のサロンも人の出


入りが途絶えてしまった。暑さを凌ぐために窓が開け放たれているせいで、マ


ウリツィオとフォスカリ夫人の会話が、隣の部屋で独り黙って酒を飲んでいた自


分の耳にも入ってくる。俺の姿が見えないからなのか、声の届く所に俺がいる


ことを二人は忘れているようだ。……私は息子一人も満足に導くことのできな


い、無力な男なんだよ……。マウリツィオの漏らした言葉には思わず頬が緩ん


だ。


  いつも思うことだが、マウリツィオ、君は人間というものが分かっていないよ


うだ。君は他人に期待し過ぎるんだよ。息子さんのエンリコが成熟した考えを


持っていないといって嘆いてどうする。まだ子供同然の歳なのだから、仕方無


いじゃないか。しかし、あの子は聡明な子だ。理不尽にも背負わされた運命


のせいで、君には見えていないものが、エンリコには見えているのかもしれな


いな。君のような人間には、多分、理解できないだろう。例えば、俺のような


人間の屑が何を考えているかなんて。


 君は家柄の良い一族に生まれて、富や特権を享受しながら育った。今はこう


してマレドの市長に納まっている。君はまるでそれが当然であるかのように思っ


ているのかもしれないが、それは不公平なことだと考える連中も少なくないだ


ろう。君は背が高く、魅力的な顔立ちで、若い時から女性にも人気があった。


そうやって献身的な妻を得たばかりか、それでは飽き足らず、こうしてフォス


カリ夫人とも親密な関係を楽しんでいる。道ならぬ関係を人に見せびらかした


りしないだけの分別を持っているのは賢明だったが、君が気付いていないだけ


で、周囲の人間は先刻お見通しだ。もしかしたら、エンリコや奥さんも知って


いるのかもしれないな。


 君のような男にしてみれば、夫と死別し、独り身をかこっていたフォスカリ


夫人を落とすことぐらいたやすいことだっただろう。罪の意識を感じる暇も無


かったかもしれないな。君は憎めない男だよ、マウリツィオ。何の屈折も知ら


ず、理想を語り、正義を愛し、生きる喜びを味わう。誰もが君にあやかりたい、


同じように生きたいと思うはずだ。


 しかし、誰もが物事を君と同じように見ているわけではない。ある者にとっ


てこの世界は理不尽そのものの場所だし、またある者にとっては息もできない


ような汚らわしい場所なんだよ。そして、ご子息のエンリコは、どうやら君と


は違う種類の人間であるらしい。最近、彼を見掛けたが、穏やかな昼下がり、


背中を丸めて俯きながら歩いてくる姿を見て、はっとしたものだ。太陽の光を


見たことが無いかのような青白い顔、人を射抜くかのようなあの目。あのよう


な少年なら、多少の狂気を宿していても、少しの不思議もあるまい。狂ってい


るのは世界の方なのだから、感受性の鋭いあの子がまともでいられるはずはな


い。マウリツィオ、ただ君は鈍いだけなんだよ。


 無駄に歳を重ねた今、鏡の中の自分を覗きこんで、時々、思うことがある。


ここに映っているのは、もう人間なんかじゃない、醜い肉の固まり、或いは屠


殺を待つ豚か何かのようだと。自分も最初からこうだったわけじゃない。この


奇妙な世界が自分をこんなふうに変えてしまったのだ。没落した家に生まれ、


これといった才能も無く、誰かの後について、ご機嫌を取りながら生きていく


しかなかった。他人から、それをどうこう言われたくはない。自分にとっての


世界とは、そういうものだった、ただそれだけのことだ。しかし、そんな自分


にも、多少の自負はあるんだよ。この冷酷な世界から、取れるものがあるなら、


何だって取ってやる。善も悪も関係ない。その時が来たなら、決して迷ったり


するものか。


 ふと気が付くと、マウリツィオとフォスカリ夫人の話し声が聞こえなくなってい


る。しかし、二人が唇と肌を合わせ、相手を求めあっているのが、夏の濃密な


空気を通して伝わってくる。今はまだその時ではない。もう少し待つしかあるま


い。だが、マウリツィオよ、そうやっていられるのも今の内だ。だから、せいぜい


楽しんでおくがいい。