sick -171ページ目

無題



http://www.youtube.com/watch?v=jtSLD9Dm1Z8


http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50032281.html

http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51492535.html


http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/159.html


http://ameblo.jp/lancer1/entry-10039682629.html




どうも、こんあんあ、シッキーです。

あんま政治的なこととか思想的なことは書きたくないと言うか、

別に主張なんてものはもともと持ってないんですが、

いよいよマジで日本あぶねーんじゃねーかと思う今日この頃です。

数十年後が心配です。





宗教について

こんにちあ、シッキーです。


先日、仏教の言葉を書きました。

基本的に僕は無神論、無信仰ですが、仏教からは学ぶものが多いように思います。

また、日本の伝統文化である茶道からも学ぶものが多いように思います。

今の日本人が忘れてはならないものが、仏教や茶道には多く込められていると思うんです。


ただ、僕はどちらかと言うと、宗教というものには懐疑的な目を持っていますし、場合によっては批判的です。それは何故かと言うと、本来あるべき宗教の在り方を実践している宗教を、僕は知らないからです。


宗教に傾倒する前に、まず現実的な感覚を失ってしまったら人間は終わりだと思っています。

たとえば以前、こんな人がいました。


「人間関係が上手くいかないからお祈りをしている」


僕よりも年上の男性だったのですが、まったくもって意味が分かりません。人間関係が上手くいかないからお祈り?お祈りなんかしている暇があるのなら、人間関係を円滑にするための努力をするべきです。しかし、その人はとても弱い性格の人だったので、お祈りをするばかりで、周りの人達と打ち解け合うことはありませんでした。


まぁ、これは某創価学○会員の話なのですが、この集団にしても、まず「他人を入信させることが教義」という時点で、信仰の本質を逸脱しているような気がしてなりません。ある意味で現代の宗教の在り方(つまり一つのビジネスとして)は理に適っていると言えますが、信仰とはもともと人に無理強いするようなものではありません。人生には常に責任というものがつきまといます。他人の人生に介入する責任──それがたとえ赤の他人であれ自分の子供であれ──が伴うことを忘れ、信仰を人に強要する一部の熱心な会員の異様な姿は、甚だ滑稽としか思えません。


お経というのは、洗脳の武器となります。

人にはもともと、「何かに頼りたい」「神様(つまり、常識を凌駕するような絶対的な力が味方になってくれること)を信じたい」という潜在的欲求があります。この人間の弱さにつけこむには、まさに何度も繰り返し唱えられる“お経”ほど理想的なものはありません。お経を唱えることを命じられ、人はどんどん洗脳されていくのです。


そして、このお経という武器は、時に人の人たる感覚を麻痺させます。


たとえば戦時中であれば、集団でお経を唱えることによって恐怖感を麻痺させたという話は普通に聞きますし、自決の時にも恐怖心を麻痺させるためにお経を唱えたケースが少なくありません。特攻隊などはこれに加えてヒロポン(覚醒剤)を用いて、恐怖を払拭すると共に高揚を得て死に向かいました。これはサリン事件で一躍有名になった某宗教団体とまったく同じ手口での洗脳と言えます。


信仰は時に人を強くしますが、それゆえに、悪意によって人を搾取するための手段ともなります。


先にも述べた会員にも同様のことが言えます。

この不況のさなか、生活に困っている人や、悩みを抱えている人は決して少なくないでしょう。

しかし、お経を唱えて不況を乗り越えられるほど、現実は甘くはありません。

オ○ウム真理教の一連の事件で一躍有名になった「ああ言えばこう言う」の代名詞の人なんかも、今は「ひか○りの輪」という新しい組織を形成しているようですが、キリスト教や仏教をはじめとして、こうした新興宗教や創価○会に関しても、僕は批判するつもりは毛頭ありません。ですが、宗教が身近に存在している人には是非とも自覚してほしいのです。


宗教は、ドラッグと似た性質を持っています。

使い方によっては、身を滅ぼすことになります。


ですから僕は、あえて無信仰を提唱します。


そして僕個人としては、仏教の一部、そして茶道をお勧めします。

言わずもがな、創価○会は仏教ではありませんし、悪い噂も度々聞きます。それが根拠のない噂だったとしても、火のないところに煙は立ちません。ドラッグに関わりたくなければクラブに行かない──というのと同じ原理です。ですから僕はそれを一切お勧めはしません。


仏教についても、たとえば“仏”という概念は、現実をよくわきまえた上で認識すべきものです。人は死んだら魂がどこかに行って、生きているうちに善行を行っておけば死んでからも幸せになれる──という考え方は、僕は好きではありません。死後の生のために生きる意味がわからないからです。それと同様に、仏というのはあくまで生きる者が持つべき死者への労いであるべき概念だと思っています。霊魂を信じるようになってしまえば(厳密に言えば仏教で定義するものと違いますが)、人は正気を失ったも同然と言えます。


何事も、依存は危険を伴います。


藁にもすがりたくなってしまうほど精神的に追い詰められることは、人生に一度くらいあるでしょう。ですが、そういう大切なときこそ、現実と戦わなくてはなりません。「とにかくお祈りで誤魔化してしまいなさい」などという教義は、あってはならないのです。いや、そういう教義はないか。これは受動側の捉え方如何です。結局、弱い人間ほど、宗教で失敗しやすい。それは何故かと言うと、弱い自分に都合の良いように解釈してしまうからです。


あともう一つ、

「事故に遭ったけど、信じていたお陰で軽症で済んだ」とか、馬鹿なことを考えるのはやめましょう。現実で起こりえるすべての事象は、すべて現実的な原因によって起こっています。偶然を信仰にこじつけるのは、とても危険です。冷静さを欠いた人間の典型的な症状です。


「信じる者は救われる」などという言葉は、こんなせちがらい世の中、もはや何の力も持たない言葉です。もともと人と信仰というのはとても密接な関係にあるものなのですが、悪意ある人間が増えたことによって、宗教は本来あるべき姿形を変えてしまいました。

信仰は強要してはいけません。

信仰は、妄信してはいけません。

まず、現実をしっかりと見ましょう。


科学を知った上で、もし科学が自分に人生の答えをもたらしてくれないのなら、そこで初めて哲学を学び、神を信じるのも良いでしょう。教養のない人間ほど、無闇矢鱈と宗教に染まっていってしまいます。それがいかに危険なことなのか、本人達にはまったく自覚がありません。宗教は、厳密に言えば、「信仰」ではなく「生き方の選択」なのだということを忘れないでください。


以上、たまには真面目なシッキーの宗教講義でした。

続きは──?

あるかも。





少欲知足

こんあんあ、シッキーです。


今日は「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉について書きたいと思います。

これは仏教の言葉で、簡単に説明すると「欲を少なく、足るということを知ろう」ということなんです。


たとえば欲をかいた人間は、どこまでも欲を膨らませていきます。その結果、満足への垣根をあげてしまい、結果的には満足を得ることが難しくなります。一方、無欲に生きる人は、小さなことでも満足できます。


要は「足る」ということの本質を知ることがこの四文字の中に集約されていると思うんですね。そして、「満足」には大も小もないということを知れば、自ずと人は人に優しくなれ、自然に対しても優しくなれ、豊かな人生を送ることができると思うのです。


これはいわゆる「悟りを開く」と同じことかも知れません。


煩悩こそが人を悩ませ苦しませます。それはどうやっても人の心から消すことはできません。たとえ悟りを開いたとしても、性欲がなくなるわけではありませんし、食欲がなくなるわけでもありません。でも、それらとどのように付き合っていくかによって、欲望をコントロールすることができます。


人の多くの悩みは、自分の欲望によって作り出されていると言っても過言ではありません。


無欲に徹するというのは、人に生まれてきた以上、ほとんど不可能に近いことと言えます。でも、生まれ持った欲望を知り、それをコントロールし、少欲知足の精神で毎日を過ごしていけば、自ずと悩みは消え、穏やかに日々を暮らしていけるのではないかと思うのです。


僕はどちらかと言うと、欲が深いかもしれません。


生活自体も、この不況のさなか、贅沢と言っても良いでしょう。


なので、もう一度自分を見つめ直して、人生を洗練させてみたいと思います。