「あかさたな話法を使った天畠大輔さんが予算委員会で質疑されました」
というニュースの一文に
知らない単語が二つもあって、
何のことやら??
で、さっそく検索
拝見しまして
感動しました。
冒頭
「見えない差別をなくしたい」
とおっしゃいました。
表面上差別なき社会をつくるために
差別されやすい障害者を
社会から
クラスから
追い出し
見えないところに押し込めてきた社会を
社会の真ん中で訴えられたのです。
これまでも
障害者対策について様々な言及が重ねられてきたとは思いますが、
国会のど真ん中で
当事者が国民の代表たる国会議員として
質疑するって
重要なことだな
と改めて思わされました。
時間がかかりすぎる
と言う人は必ずいるでしょう。
確かに時間はかかります。
代読にして
他に二三やり取りを増やした方が有意義だという人もいるでしょう。
でも
すべてを代読にして
節約した時間で何を得るというのでしょうか。
代読される用意された質問に
用意された答弁を読むのを聞くだけの
なんちゃって質疑に何の意義があるのでしょうか。
逆に
天畠さんのあかさたな話法での質疑時間
あなたは何を失ったというのでしょうか?
失ったものなどなにもなくて
天畠さんペースの同じ時間を共有したというだけで
それが異なる立場の人とのほんとの時間の共有を
体得してることになってるのです。
自分が当事者じゃない限り
マイノリティーの方々の立場になって考えるって
難しいことだけど
一緒にほんとの時間を共有するだけで
本を読んだり、
代弁者の話を聞いたりするより
何倍も身に染みるものがあるんじゃないかな。
だから
すべての立場の人々が
社会の真ん中である
国会で声を上げる
その機会はすべての人々に平等であるべきだと思います。
大きい声を出せる人たちばっかりに
マイクが向けられる世の中ですが
声なき声にこそマイクを向けて
拡声していかなきゃいけないんだろーなー。
障害者や外国人やミックスさんや
少数民族やLGBTQとかが
マイノリティーと思われるかもしれないけど
今や若者も人口構造的にはマイノリティーなんですよね。
その若者が生きていく未来の環境が
今よりも生きにくいものになることが明らかな今
声の大きい人がもっと真剣に動いてくれればいいけど、
なかなかそうはなってないので
若者も
若者を想う若者じゃない世代も
声をあげなきゃいけなくなってますね。
様々な立場の人々の声が協和音となって
響き渡る社会になってほしいものです。
天畠さん1981年生まれの40歳
イギリスの新首相に決まったスナクさん1980年生まれ
イタリアの新首相メローニさんは1977年
日本の同世代の政治家というと小泉進次郎氏ということになるけど、
ぎゅーっと下っ端に据え置かれてる感じ。
彼がどうのというのではなくて
引退後も経済的にも環境面でも安泰が確定してるじーさんたちに牛耳られてる場合ではない気がする。