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今回訪ねているのは長野県飯田市。今は飯田市内にある飯田古墳群を訪ねています。
今回が飯田古墳群では最後の訪問になります。訪ねたのは川路地区の古墳です。
ここは竜丘地区からさらに天竜峡方面へ南下した地域にあたります。
ここで国指定となった古墳は馬背塚古墳、御猿堂古墳の2古墳です。他にも前方後円墳が2基ほどあるのですが、墳丘の削平が激しいためか指定から外れています。
ここは名勝にも指定されている景勝地、天竜峡が近い地区です。また地区内には古刹・開善寺があり、古墳の築造が終わっても地域の歴史上重要な場所となりました。
1、御猿堂古墳
まずは御猿堂古墳から。ここは上川路地区の名刹、開善寺から程近い所にあります。JR飯田線の川路駅が最寄りです。
なんで「御猿堂古墳」というのでしょうね?「おさるどうこふん」で読み方は合っているようです。
川路地区の河岸段丘端にある古墳で、高低差の大きい所に立地しています。
墳丘上はほとんど墓地となっていて削平が激しいです。墳丘だけを見ると、とても残念な気持ちになります。
しかし、この古墳にはぜひ見ておきたい見どころがあります。それこそが後円部に残る横穴式石室。
早速入室しましょう。
入口は飯田古墳の他の古墳同様、狭いです。足から滑り込むように中に入ります。
ところで、飯田古墳群を訪問したのは、まだまだ暑かった9月中旬でした。すなわち、石室の先住民がまだまだ活発に活動している時期です。カマドウマやゲジゲジ、コウモリ等々…。
今回の訪問では、コウモリがとても元気でした。御猿堂古墳も例外なく、コウモリが私の侵入に驚いて、襲い掛かってきました。
しかし、めげることなく奥へ進みます。上の写真にもコウモリさんが写っていますね、天井石のところに。
そして、御猿堂古墳の石室でまず驚いたのは奥行の深さです。つまり、羨門から奥壁までが長い。
飯田古墳群にはこんな石室を持つ古墳が他にもありました。
飯沼雲彩寺古墳がそうでしょう。
玄室が長いですね。上の写真を見ていただくとわかりますが、秣石が遠いです。
御猿堂古墳も古いタイプの横穴式石室と言えます。これは早くからの畿内地方の勢力と伊那盆地の勢力の結びつきの大きさを伺えます。
改めて飯田古墳群が注目に値する古墳群だったことを認識します。国指定史跡になるまで気が付けなかった自分が少々情けないです。
そして、どうやって段丘下の天竜川河原から持ち上げたのか、驚嘆に値する大きさの天井や側壁を形成している巨石の数々。
ここからは多数の副葬品が出土していて、特に江戸時代に出土した「画文帯四仏四獣鏡」は精巧な出来栄えで状態も良く、近隣にある開善寺の寺宝となりました。今は重要文化財に指定され、飯田市立美術博物館に寄託されているそうです。
この鏡、未だに見ることができないでいるのが残念です。この古墳の築造年代は6世紀中頃と見られています。
ゲップが出るほど満足して、御猿堂古墳を後にしました。
2、馬背塚古墳
飯田古墳最後に訪ねたのが、馬背塚古墳(ませづかこふん)です。
御猿堂古墳から段丘を一段上がったところにある古墳で、なんとこの古墳は前方部と後円部に一つずつ横穴式石室があるのです。
築造年代は御猿堂古墳に続く6世紀末と見られ、この古墳を最後に、下伊那地方では前方後円墳が造られなくなります。
そんなメルクマール的な古墳です。
アプローチは前方部側からとなります。墳丘上は竹林となっていて、登ることができません。
周囲も水田としてかなり崩されています。
上の写真は西から見た馬背塚古墳で、手前が後円部石室、奥に奥に見える巨石が前方部石室の入り口です。
前方部の石室から見ていきましょう。
前方部石室は比較的入口が広いです。
中を見てみましょう
両袖式の石室ですね。
そんな平面形から、畿内地方との関連を指摘されています。
やっぱり、天竜川から引っ張ってきたであろう巨石で積み上げられています。
改めて巨石を積んだ石室を、ただただ驚嘆の想いで見ています。
天井はやや低いですね。それでも人の背丈ぐらいはあります。
両袖式石室がよくわかるのが、下の一枚ですね。
続いて、後円部の石室を見てみましょう…
と思ったら、入口に柵があります。
なになに…?
「落石があるため 立ち入らないでください 飯田市教育委員会」
えっ
入れないの
残念ながら落石があったらしく入れなくなっていました。
入口あたりに崩落の跡があるのがそれでしょう。
昔、入ったことがあるのがわずかな救いです。
というわけで後円部石室には入りませんでした。これから見学される方にも入室は、ここではお勧めできません。
外から無袖式の石室内部を撮影するに止めました。
こちらは地域的な特色を持つ他の古墳の石室の系譜を継いでいると見られ、前方部より早く築かれたと考えられています。
これで飯田古墳群として国指定史跡となった古墳はすべて見ることができました。
しかし、飯田古墳群の指定の仕方はかなり恣意的です。
墳丘が残っているにもかかわらず指定から除かれた前方後円墳が8基もある
横穴式石室がある前方後円墳以外の形状の古墳の位置づけが不明瞭
前方後円墳発生以前の古墳についての言及がない
など、問題点がまだまだあると思います。
墳丘が残る前方後円墳のみ指定については、保存状態が悪いから除いたというのは理解できます。
しかし畦地一号墳のような、前方後円墳と同時期に築かれた、前方後円墳でない古墳の扱いが雑な印象が否めません。
さらに代田狐塚古墳(伊那谷に最初に築かれた前方後方墳)のような、伊那盆地の最初期の古墳については指定理由を明確にするためなのか考えられていないのです。
伊那谷における古墳の展開を考える上では非常に重要なことだと思われるのですが、その後の議論についてはどうなっているのでしょう?気になります。
さて、飯田の夜は名物で一杯と行きましょうか。
飯田市を含めた伊那地方では、蚕の蛹や蜂の子、ざざ虫といった虫食が有名ですが、実は馬肉食も有名です。
しかし、まさか馬のモツまで食しているとは思いませんでした。
馬モツはもちろん馬の腸のことなのですが、硬くて他地域では食べることはまずないといいます。
しかし、会津地方とここ、伊那地方では「馬を最後まで利用するのが馬の供養」と考えられている話は前回もしました。
なので、馬のモツ料理があるんです。
それがコチラ↓
「おたぐり」と呼ぶそうです。もともとは「モツ」の扱いだったそうですが、豚や牛のモツに比べて処理時間が長い(食べられる硬さになるまで5時間煮込むらしい)ので、処理する際に手繰り寄せるように扱うことから「おたぐり」と名付けられたそうです。
いまでは伊那市と飯田市内の数店舗でのみ食べられるとか。
今回は、しょうゆと酒で味付けし、一味唐辛子で味を整えた炒め物でいただきました。ではさっそく一口…
うーん、これは、ちょっと歯ごたえのあるモツ炒めですね。うまいですけどね。モツ炒めです。日本酒が合うかな…
それでも、変わったものを食することができて、明日も飯田の文化財を周れる元気をいただきました。
※参考文献
『飯田における古墳の出現と展開』、飯田市教育委員会(2007)
『伊那地方の地名』、松崎岩夫・著、信濃古代文化研究会(1984)