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今回訪ねたのは、福島県いわき市内にある、江戸時代にはお坊さんになるための学校だったお寺です。
こういうお寺を「壇林(だんりん)」といいます。
学校だったわけですから、大勢のお坊さんが往来していたんだと思うと、たいそう大きなお寺なんだろうな、と思いながら訪ねました。
それでは訪ねてみましょう。
浄土宗の奥州大本山だったお寺
訪ねたのはいわき市平にある「梅福山 報恩院 専称寺」という浄土宗のお寺です。
お坊さんの“養成学校”といったら修行場ということで、真っ先に思い浮かべるのが福井県の永平寺あたりでしょう。
あれほど大きなお寺が、いわき市にあるなんて聞いたことありません。
どんなお寺だろう![]()
と思いつつ、訪ねました。
実際に到着してみれば、一見、そこにはポツンと四脚門形式の小さな門があるだけでした。
ちょっと拍子抜けしながら、門の奥にあった解説板を読みました。
専称寺は南北朝時代が終わり、室町時代が始まった応永2(1395)年、良就十聲が開創となって開かれました。浄土宗名越派の壇林として発展し、6世の良大のときには勅願所なもなりました。
江戸時代には浄土宗の奥州総本山としてさらに発展し、寛文8(1668)年に大火で伽藍の大半を消失していますが、時の磐城平藩主の内藤家の援助や奥州地方の末寺に勧進して復興しています。
この頃には本堂、方丈、庫裏や総門などのほか、多くの堂舎や寮の建物があり、偉容を誇っていたようですが、現在は総門、大火後に建てられたとみられる本堂、庫裏(これらが重要文化財になっています)と、さらに後に建てられた鐘楼堂、開山堂などがあります。
制度の変化によって今では地方の一寺院となってしまったようですが、境内各所には往時の面影が見られ、境内一帯は福島県指定史跡・名勝となっています。
専称寺をお参りする
参道が山に向かって伸びていました。お寺は山の上のようです。
それでは境内へ向かう前に、重要文化財となっている総門からお参りさせていただきます。
建築年代はハッキリとはわからないようですが、江戸時代初頭の建築とされています。境内から離れており寛文の大火で燃えなかったのかもしれません。そうすると境内最古の建物ということになります。
銅板葺となっていますが、元は茅葺だったのでしょうか。指定時には瓦葺だったようです。その後の復元修理事業でこのような形にしたようです。
四脚門で門扉がある形式です。
まずこの建物で真っ先に気付いた特徴は、表側と境内側で柱の形状が違うことでした。
表側の柱は丸柱で覆輪があり、禅宗様の要素があります。
ところが、境内側の柱は角柱です。
こういうのって、一つの建物で統一しない例があるんですね。
貫の木鼻は装飾が簡素です。
彫りが浅く、雲形をしっかりと表わしていません。動物が吠えているような感じ。
妻側の飾りは懸魚と大きな蟇股が。蟇股には三つ巴紋がありました。
このお寺の御紋かな?
木鼻の意匠などが江戸時代初頭の様式なのでしょう、形骸化したとされる江戸中期の建物より素朴で勢いがある印象です。
ここから参道を進みます。
階段を登っていくと、中腹は平坦に開けていて、梅林がありました。
梅の季節には観梅目当ての参拝客でにぎわうそうですが、現在はただの林です。
映えもしませんので林を通り抜け、奥にある階段をさらに登りました。
結構な急登です。息が上がってきた頃に再び平坦地があって鐘楼や手水舎が見えてきました。
ここでギョッ![]()
となったのが、右手に見える鐘楼でした。
なんと、崖から飛び出すように建っているじゃありませんか。
袴腰の下を僅かばかりに組まれた基礎柱で支えられているだけです。倒れないの![]()
解説によると、江戸時代の後期に建てられたもので、この建て方も懸崖造りの一種なんだそうです。
京都・清水寺の本堂に見られるやつですね。
まあ、それなら倒れないんだろうな。ちょっと不安ですね。
ところで、この辺の風景が往時の大伽藍を彷彿とさせる、趣のあるポイントです。ここでちょっと息を整えましょう。
そしてやっと、本堂や庫裏のある境内の中心地へたどり着きました。
本堂へお参りしましょう。
外観からして、結構な大きさなのはわかりました。
本堂は中も上がってお参りできました。この内部が凄かったんで、ちょっと詳しくお話しします。
まず、柱が多い。棟持ちの柱は特に太い。
大屋根を支えているのですから、それはまあもっともなのですが、さらに凄いのがこのお堂、入側(廊下)が広く、さらに外陣、内陣と構成されているんです。
お寺の本堂では当然、中央の内陣は仏様のおわしますところ、なわけです。だから内陣を構成する建具は漆が塗られて高級感が溢れています。
で、その周囲に外陣があり、僧侶や信者がお参りする空間であるわけですが、入側が広くてここまで人が入れるんじゃないか、と思わせるんです。
それだけ大勢の人数を収容することを想定しているでしょう。入側の前にさらに落縁があるのに、その外側に扉や障子などの建具があって外と区切っているのですから、そうなんだと思います。
こういうところが壇林だった名残りですね。広い空間を確保するための架構構造も非常に面白い。
皆さんもぜひ一度、実物をご覧いただきたい。
さて、続いては庫裏を見学します。現在は庫裏として使用しておられませんでした。
内部は雨漏りがひどく、腐っている箇所もあるとのことで見学はお断りのようでした。
よって外観だけの見学です。
専称寺のホームページを見ると、専称寺は東日本震災の被害が大きかったようです。
境内の建物の修復事業や整備事業のためにクラウドファンディングも行なっていたそうで、先ごろやっと総門と本堂の修復が終わったそうなのです。
これでやっと庫裏の修復も手掛けることができるようになるのでしょうか。私も先立つものがあればぜひ、寄進したいところです。
















