葵祭の前儀である下鴨神社の流鏑馬神事が見たくて、車を飛ばして京都に向かいました。
GWの真っ只中なので高速の渋滞は覚悟して向かいましたが、行きは何ヶ所か数キロの渋滞はありましたが、大きな渋滞は無く一宮付近の6キロが一番大きいくらいでした。
京都東インターの三条通り方面に出る交差点はいつも混んでいるのですが、ここもいつもの土日よりスムーズなくらいでした。
名神の春日井インターに7時35分に入り、京都のくろ谷さん(金戒光明寺)の駐車場には10時1分に入場しました。
こちらの駐車場は24時間営業の当日最大800円で、岡崎や南禅寺・永観堂や哲学の道からちょっと離れてはいますが、歩いて行ける距離で、駐車場も満車になることも少ないのでここに車を置いて周辺散策にはかなり使えます。
くろ谷さんは法然上人ゆかりの地で知恩院と並ぶ格式を持つ浄土宗七本山のひとつです。
江戸初期に徳川幕府の援助を受け、知恩院と同様に城郭構造に改築され、京都における徳川幕府の軍事的要所のひとつとも言われています。
幕末には会津藩主松平容保公が京都守護職となり、京都守護職会津藩の本陣となります。
会津藩兵1,000人がこちらに常駐し、また新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせていました。
くろ谷さんは御所や二条城や粟田口に近く、小高い丘の上のあるため見晴らしも良く、1,000人を駐屯させる施設もあるために本陣に選ばれた、まさに要塞として使用されました。
松平容保公は京都守護職就任の要請には何度も固辞したと言われ、家臣からも「火中の栗を拾うようなもの」と大反対にあいましたが、最後には将軍の要請を断りきれず決断したと言われています。
そしてこれが後の鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、会津若松城の戦いの悲劇へと続くこととなります。
会津若松城の戦いでは新政府軍による虐殺や遺体の放置があったとして、会津人の薩摩・長州嫌いが始まります。
また西南戦争では薩摩の西郷隆盛に対する恨みから会津人の志願兵がかなりあったとも言われています。
今回のくろ谷さんの特別公開は山門と御廟でしたが、山門は内部も含めて、知恩院の縮小版かなという印象がありました。ただ知恩院はカーテンを引いて内部を暗くしていましたが、こちらは開け放たれて明るくて拝観しやすかったです。写真はやはり知恩院と同様に内部も眺望も撮影禁止でした、残念。
御廟も撮影禁止でしたが、内部の禁止はまだいいとしても、建物を含めた周辺の撮影禁止には驚きました。普段は別に周辺は自由に撮影できるのに、また内部も普段はのぞき窓から覗けますし、撮影もできますので。そうか、普段も禁止なんですが、注意する人がいないだけなんですね。
くろ谷さんの次に真如堂・宗忠神社・竹中稲荷神社・吉田山公園を散策して、今出川通に出ました。
このあたりで1時ごろになっていましたので、通沿いの中華飯店でお昼を取りましたが、京大の学生向けなのかランチが安くてライスのお変わり自由で美味しかったです。
下鴨神社の流鏑馬は2時からでしたので、タクシーを拾って行こうかと思いましたが、空車は全然こないので、運動のためにも更に歩くことにしました。