《生贄おとこ》
その朝も雪が降っていました。
灰色一色の先が見えない空から大粒のぼた雪が、無言のまま絶えることなく降りて来てます。
国鉄官舎の庭は、すでに綿あめのようにふんわりした雪で覆われ、すべてが白い世界に没し、鳥の小さな足跡が小さな模様を描いています。
母は外はとても寒いだろうと、白い下着を2枚重ねたうえにさらに数枚のシャツを着せようとします。
わたしはそんなに寒くないと、お気に入りの袖だけが白いネイビー色のジャンバーを手にして、南側のサッシ窓から飛び出しました。
ユーちゃん
ほらマフラーをしなさい!
慌てて母が、メガネを落としそうになりながら叫びました。
わたしはこれもお気に入りの青いマフラーを無造作に首に巻いて、庭の鳥の足跡を確認します。
どうやらスズメにしては大きな足跡、名前も知らない野鳥だろうと判断します。
これも青い色の毛糸の帽子に、雪片が降りてはすぐに消え、消える寸前に次の雪片が重なるとようやく帽子にも雪が積もり始めます。
雪はいつも何も喋らず黙々と降って来ます。
顔を上げて口をめいいっぱい広げると、舌の上に雪片が触れては溶けます。
雪は甘くもなければからくもありません、ひんやりとしたほんの一雫の雪の味です。
無言の世界に閉ざされた国鉄官舎の裏の「森」は、すっかり雪に覆われ樹々はその重みに耐えていました。
春になったら、また朝陽が東の空を幻想的に彩る時刻にクロアゲハ蝶を探しに行こう、そして何者かにこの村のハンセン病療養所から連れ去られた、あの縮れた髪に異様に発達した大きなひたいの少女がスケッチブックに描いた、ほふられた子羊があらわれるのを待つことにしよう!
「森」はその樹々の梢から宇宙と交信をし、宇宙の声を聞いています。
「森」の主たるほふられた子羊は、宇宙の声を聞き、地球を守るために生贄となってその身を宇宙に捧げるでしょう。
わたしにはすでにわかっていたのです。
この「森」の奥で、ひっそりと赤錆たトタン屋根の平屋建てにひとりで住み、村人からは「森の隠遁者」と蔑まれているおとこ…
毎晩のように「森」に向けて鎮魂歌のごとく、Ravelの「亡き王女のためのパヴァーヌ」をピアノで奏でるおとこ…
かれこそが、ほふられた子羊の仮の姿だということを…
そして、かれの家の庭一面を覆っている灌木のような子供の背丈ほどもある背の高い植物には、カエデのように先端が尖った指を広げたような葉と、棘のある赤い紡錘形の
「トゥゴマ」の実がたくさん実っているということを…
そして猛毒の「リシン」が含まれている赤い実だということを…
それからわたしは雪道を、何度も滑って転びそうになりながらがむしゃらに走りました。
登校中の他の子供たちが、怪訝そうに見送ります。
顔に雪片が絶えず当たって、目を開けているのがやっとでした。
赤錆た鉄製の橋の架かった「大排水」までやって来ると、息が切れて激しく鼓動し鉄製の欄干に毛糸の手袋をしたまま掴まり、「大排水」へ吸い込まれて行く無数の雪片を眺めました。
カナエ…
雪片のように、この「大排水」へ吸い込まれ死んでしまった美しい幼馴染みのカナエの顔が蘇ります。
見上げると灰色一色の空に、白い花のような輪の太陽がほのかに光り、その中心にあの「森」ではじめて出会い、琥珀色の蝋燭の炎に浮かんだ「小さな丸い顔に大きなひとみ」がふたたび浮かんでいました。
わたしはその大きなひとみに、雪でびしょびしょに濡れた顔のまま渾身の笑顔で挨拶をしました。
おはよう
また会えたね
