《あの日 Papt2》


晩翠通りに面している勤務先の事務所から出ると、鉛のような灰色の空から、桜の花びらのような細かな雪片が舞っていました。
雪が舞う街は、もはや日常とは何かが大きく違っていました。
わたしには、不思議と教会の鐘の音がカラーンコローン、カラーンコローンと街全体に響き渡っているように聞こえました…

しかし同時に仙台の街が、静謐さの中に異様な高揚と嘆きと諦めに満たされ、人々が神の審判から逃れるように我先にと家路に向かっていました。

わたしは、晩翠通りの大仙台駐車場から、なんとか通勤に使っている緑色っぽいブルーのルノー・カングーを、渋滞でほとんど進まない通りへ進入させました。

車はほとんど動きません。
ラジオのNHK放送からは、各地を襲う巨大な大津波の模様が刻々と伝えられ、この地震が桁違いの未曾有の大地震だったことをあらためて認識できました。

わたしは、ルノー・カングーのバスのような大きなフロントガラスから、やがてこの空が「あの日」と語られるだろうと思いながら、夕暮れの暗くなった雪が舞う空を仰ぎました。
神からの審判が下された日の空を、けっして忘れてはならないと強く思いながら…

そして神の審判が下されても、命を落とすことなく無事だったことにぼんやり安堵するとともに、神の審判がいかなるものか、この眼でしっかりと見定め記憶しておかなければならないと思いました。


やはり信号機の止まった仙台の街は、車はほとんど動きません。
もちろん電車も止まり、駅で朝を迎えた人たちも大勢いました。

腹が減り、家の被害がどの程度か心配でした。
そしてようやく家に辿り着いたのは、地震発生から7時間以上経った夜の10時過ぎでした。
幸いに、家の中はそれほど被害がなく、テレビがひっくり返っていたり、食器棚から皿が床に落ちていた程度です。
しかし停電のためテレビも観れず、その後の被害の状況も知れません。

月明かりもない真っ暗なキッチンで、暖房も使えないためカーディガンやダウンを着込み、炊飯器に残っていた冷たい白米を食べました。
余震が続き、これからどうなるのかまったくわかりません、すぐにもとの日常生活には戻れないでしょう。
朝になったら近くのコンビニで食料とビールを確保し、すぐ近くの介護施設「しんせん長春館」に入居している父の様子を見にいかなければなりません。
冷たいベットに横になると、すっかり疲れていたためすぐに眠りに落ちました。

夢の中で、「小さな丸い顔に大きなひとみ」があらわれました。
この未曾有の危機の後の新しい未来で、きっとあえるだろうきみが…