《大気の震え》


年が明けた元旦、父は仙台の鉄道病院に入院中のため、わたしと母のふたりは仙台市近郊の祖父の家に泊まりに行きました。
祖父の家は、東西に細長くも広大な面積の土地を有し、門を入るとすぐ1本の柿の木が迎え、庭の間を縫って石畳が玄関まで続いています。
庭の奥にはポンプ式の水汲み場を備えた白い井戸があり、その先は畑が続き、納屋、鶏小屋、豚小屋そして小さな土蔵さえありました。

正月ということで、母の2人の妹家族も泊まりに来ていました。
温和で働き者の祖父は、にこやかに孫たちを迎え、何事にもきびしくめったに笑わない祖母も、さすがに娘や孫たちの姿に嬉しそうです。

夕飯の時刻になり、皆が茶の間に所狭しと揃うと、座敷の一番奥の座椅子に座った常にきれいに白髪を整えている祖父は、穏やかな口調で、とくにわたしを含め5人の孫たちに一つの注意を与えました。

鶏小屋と豚小屋の先に白い土蔵があるけれど
豚小屋から先には行ってはならない
万が一豚が小屋から逃げ出すと、なかなか戻れなくなってしまいますからね
忘れないように気をつけて
………
とくに土蔵に近づいてはなりません
………

おじいちゃん
豚小屋までならいいんですか?
明日、豚の様子を見たかったから
………

すかさずわたしは、微笑みながら座椅子にもたれて孫たちの様子を楽しむかのように眺めていた祖父に、念を押すように尋ねました。
明日、本当にわたしは、豚を見に行こうと思っていたのです。

はいはい
豚小屋までならかまわないです
でもその先に行ってはなりませんよ
ユキヒロは豚を見たいのかい
………

はい
ニワトリはいつも仲間たちと
畑を歩いているけれど
豚はいつも小屋の中でひとりぼっちだから
話しをしてあげようと思って
………

そうかそうか
ユキヒロは
いろんな生き物が好きなんだな
………

そうなんですよ
おじいさん
なかなか学校でも友だちをつくろうとしないのに、生き物ばかりに興味を持って
………
この間など
庭のアリの巣に、砕いたクッキーを置いていたんです
アリが食べ物に困らないようにと
………

枝のように細身で眼鏡をかけた、つい黙ってはいられない性格の母が、落ちかけた眼鏡に手を添え苦笑いを浮かべながら祖父に訴えました。

ハハハ
ユキヒロや
生き物を大事にすることも大切だけど
友だちをつくることは
もっともっと大切ですよ
………

祖父が、愉快そうに優しい笑顔を浮かべながら諭してくれました。

ユウちゃん
明日の朝、ニワトリが産んだ卵を集めに行くから、ユウちゃんも手伝って
その時、豚の様子も見てみよう
………

すると先の太平洋戦争で戦死したとされる、この家の長男であり母の兄のひとり娘のナツコちゃんが声をかけてくれました。
しかもナツコちゃんの母親も、夫が戦死したという知らせが届くや否や、この祖父の家を飛び出し行方知らずでした。
しかし、まだ中学生で細身のナツコちゃんは、祖父母の愛情を受けながら、この家の2階で気丈に暮らしていました。

わたしは、耳が隠れる程度の短い髪に鼻筋がとおり二重まぶたのくっきりとした瞳のナツコちゃんに、親しみを感じていました。
ふだんは快活な彼女が、ときおり見せる儚くも美しい表情が、友だちのいないわたしには近しい存在に感じられたのです。


翌朝、障子窓が白みを帯び始める頃、わたしは湯たんぽで温められた布団からゆっくりと抜け出し、まだ薄暗く冷えきった部屋で顔をしかめながら急いで着替えました。
昏い東の空の底辺が色づき始め、庭一面に朝陽が注がれると、すべてのものの形や色が蘇って、わたしを迎えていました。

ポンプ式の白い井戸の前では、すでにナツコちゃんが、卵を入れる籠を持って待っていました。
色づいた東の空を背景に、細い影が長く伸びてその姿は眩しく見えます。
近づくと彼女の鼻筋のとおった顔が、西洋人形のように美しく感じました。

ユウちゃん
おはよう
………

ナツコちゃんは、二重まぶたの美しい瞳で微笑んでいました。


わたしとナツコちゃんは、朝陽に照らされた鶏小屋から生みたてのまだ生温かい卵を集め、ニワトリたちを外に出してから、隣の豚小屋を覗きました。

北側の壁だけが朝陽に照らされ薄暗い小屋には、丸々太った白いはずがあちこち汚れの目立つ豚が、藁に鼻を押しつけてさかんに鳴いていました。
ナツコちゃんは、豚小屋の臭いにその美しい顔を歪めましたが、わたしはほとんど歩き回るスペースもない豚を、やはりかわいそうに思いました。

つらくないかい?
外に出てみたくないかい?
………

ナツコちゃんは、そんなわたしの肩にそっと細い指を乗せてから、抱き寄せてくれました。
豚小屋の臭いに混じって、ナツコちゃんの甘酸っぱい匂いがしました。


ニワトリの卵を祖母に渡してから、わたしとナツコちゃんはポンプ式の白い井戸で、銅製のレバーを上下に動かして水を汲み、汚れた手と顔を洗いました。

わたしは、東の空の底辺から昇った大きな太陽を見つめ、あの「森」で感じたことをナツコちゃんに伝えたくなりました。
ナツコちゃんは白い井戸の縁に腰かけ、朝陽を二重まぶたの美しい瞳で眩しそうに眺めながら、わたしの話しを黙って聞いてくれました。

夏の終わりに、ぼくは国鉄官舎の裏にある「森」の中で朝を迎えました
薄暗い東の空が、海辺の松林の地平線を底辺として淡いあけぼの色に染まり始めると、「森」の樹々の枝や葉も赤く色づきました
それははじめて見る、この世界=宇宙の姿でした
感じました、宇宙はこうして始まったのだと…

そしてまさに「森」は、この宇宙のはじまりの象徴たる太陽の光に包まれ、赤ん坊のうぶ毛のような樹々の梢がアンテナとなって、宇宙の声が「森」へと伝えられていました
ぼくはその光景に接して、宇宙の声=「森」の声、だと感じました…

ナツコちゃんは、ふたたびぼくを抱き寄せてくれました。
ナツコちゃんは震えていました。
なぜ震か震えていました…

わたしはふと、気丈に振る舞うナツコちゃんの二重まぶたの美しいひとみが、堪えるように潤んでいることに気づきました。

太陽は、今日も変わらずその莫大なエネルギーを地球に放射しています。

突然、わたしは走り出しました。
ニワトリが喚きながら慌てて跳ね出し、わたしは転びそうになりながらも豚小屋まで走ると、側面の木枠をなんとか外して、丸々太った豚を外に出そうとしました。
しかし木枠はなかなか外れません。
指に血が滲み、わたしは泣きながら、何度も何度も木枠を外そうとしました。
しかしやがて駆けつけた母に腕を掴まれ、母の胸に顔を埋めました。

そしてその時、嗚咽しながら母の胸の中で目を開けると、またしてもあの「小さな丸い顔に大きなひとみ」のきみが浮かんでいました。
わたしは泣き腫らした顔に、渾身の笑顔をつくり挨拶をしました。

お、おはよう
また会えたね