<東京都>~2016年東京で迎えるお正月・3日目(葛飾散策)① | 花咲く旅路

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2016年、東京に居残っての三が日、3日目は「葛飾区」を散策します。

 

東京でもまだ行ったことのない地、寺社仏閣巡りや、

 

「柴又」で寅さんの世界を味わいに参ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

当日は9時に自宅を出ました。

 

前日、「箱根駅伝」や「一般参賀」に行き、各種ショップのセール巡りした影響で

 

若干足がお疲れ気味。。。

 

でも元気に出発しますよ!

 

 

快晴で、春みたいにうららかに暖かい日。

 

いいお正月なのですが、あんまり寒くないと、お正月の感じがしないなぁ~

 

 

 

 

 

 

 

 

JRで「上野」まで出て、「上野」からは京成線に乗り、「高砂」へ。

 

京成線では成田空港に向かう帰省客がたくさん行列をつくっていました。

 

 

 

 

 

 

 

京成高砂駅      に10時30分前に着きました。

ここから「金町線」に乗り換えれば「柴又」まで1駅ですが、

ここで下車して散策しながら向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

駅から線路沿いに歩きます。

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

「柴又七福神」の案内が出ています。

七福神の神社を主に巡ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「京成高砂駅」からすぐ、線路沿いに建つ神社。

観蔵寺

 

 

1469年、「僧空性坊」が創建、1653年、「隆敬法印」が中興開山したと伝えられます。

「柴又七福神」のうちのひとつ「寿老人」を祀ります。

 

わたしは散策コースとしてこのエリアを選びましたが、

お正月なので、「七福神」巡りで参拝している人が多かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「京成線」をくぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天祖神社

 

 

 

 

                八雲神社

 

 

「伊勢」、「鹿島」、「香取」の神を祀り、江戸時代以前は「三社大明神」と称していました。

創建年代は不詳ですが、社伝によれば、中世、

「伊勢神宮」の神領「葛西御厨」が置かれていた時代(1165年)に、

「皇大神宮」から分霊を勧請し、村の鎮守として奉斎したことに始まるといいます。

1873年(明治6年)に「天祖神社」と呼び名が改められました。

社宝のひとつに1839年に奉納された「板絵着色雨乞図絵馬額」があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大光明寺

 

「極楽寺」の廃寺を受けて、平成年間に創立したお寺です。

「極楽寺」は、1278年~1288年の「弘安年間」に、

「青砥藤綱」が一族菩提のために創立したものと伝えられています。

「国府台合戦」の際に「観蔵寺」とともに炎上し、一時は衰退しましたが、

1573年~1592年の「天正年間」に「廓誉」によって再興されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次のお寺に向かって歩きます。

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北総鉄道」と「京成本線」を超えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉公園

 

 

 

 

住宅地にある公園。

「野草園」や遊具、じゃぶじゃぶ池があり、子どもから大人まで楽しめます。
 

 

 

 

 

野草園

 

 

「野草園」では約200種の山野草のほか、

水辺の生き物や植物などを観察することができます。

残念ながら閉まっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧佐倉街道

    

 

「江戸幕府」により「佐倉道」、「佐倉街道」と命名された街道であり、

「水戸街道新宿」から「佐倉城」に至ります。

この街道を経由して「成田山新勝寺」へ至る成田参詣が隆盛するに従い、

1804年~1818年の「文化年間」頃より、

「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになりました。

東京都内については、「水戸街道」の「新宿追分」より南方に分岐して、

新金線、京成金町線、北総鉄道、柴又街道と順次交差し、

「リブレ京成新柴又店」北側道路を経て「江戸川」土手に至ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

医王寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1407年7月7日、将軍「足利義満」が、奇病(赤目病)が下総国一円に発生し、

住民が全滅の危機にさらされているのを聞きおよび、時の「後小松天皇」に、

悪病退散の祈願寺の建立を上奏し、京都「仁和寺」の僧「観見和尚」に「薬師瑠璃光如来」を

奉持させ、「柴又村」の当地に建立したものです。

「赤目病」とは、両目が最初充血し、悪化するにつれ「目やに」が出て、

やがて瞳が白く濁り「下まぶた」が垂れ下り赤くはれ上がり、

最後には失明してしまう恐ろしい奇病で原因は不明であったそうです。

当時の目の病いに苦しむ村人たちが、近郷近在より参詣に訪れました。

現在でも、眼病を護る仏として参詣に人々が訪れています。

 

1538年、1564年、再度の「国府台合戦」に焼亡しました。

1624年~1644年の「寛永年間」に、「金蓮院」の僧が再興して、

名を「医王寺」と改めました。

本尊の「薬師如来像」は古くから秘仏とされています。

もと江戸川の沿岸にあったが、1915年(大正4年)、

堤防拡張工事のため現在地に移りました。

「そば寺」として知られ、本堂の傍らに「そば地蔵尊」の石像が建ちます。

「柴又七福神」のひとつ、「恵比寿像」が安置されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北総鉄道」の     新柴又駅    次の七福神の案内が出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅間山噴火川流溺死者供養碑

 

 

 

1783年、7月5日から7月8日にかけて「浅間山」が噴火し、

周辺に大きな被害を及ぼしました。

山津波により「吾妻川」下流などでは大洪水を引き起こし、

2000人余りの犠牲者と家屋1800戸が埋没しました。

「利根川」や「江戸川」流域でも水害の被害が大きく、

上流からの溺死者の亡骸が、「江戸川」沿いに漂着しました。

当時の「柴又村」や「小岩村」の人々は亡骸を丁重に供養し、

後に「浅間山噴火川流溺死者供養碑」を建立しました。

 

碑が建つのは、「柴又帝釈天題経寺」の墓地になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝生院

 

 

 

 

 

 

 

1624年、「常陸国大聖寺末宝性院」として「京橋」付近の創建、

「下谷谷中」への移転を経て、1655年~1658年の「明暦年間」に

「池之端茅町」へ移転しました。

関東大震災で罹災し、1927年(昭和2年)にこの地へ移転しました。

「柴又七福神」のひとつ「大黒天」を祀り、江戸期から信仰を集めていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      「寅さん記念館」の案内が出てきました。

 

 

 

 

 

 

                       公園脇に「七福神」のモニュメント。

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

万福寺

 

 

 

 

 

 

1928年(昭和3年)に創建、「柴又七福神」の「福禄寿」を祀ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)