<埼玉県>~紅葉の平林寺・野火止用水緑道を往く④ | 花咲く旅路

花咲く旅路

旅、グルメ、MONO、自分を幸せにしてくれるものを記録します。

 

「平林寺」境内の伽藍を拝観した後は、広大な境内林をめぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

雑木林を主とする広大な境内林は、総面積13万坪、東京ドームおよそ9個分になります。

かつての「武蔵野」の雑木林の面影を残す貴重な文化財として、1968年(昭和43年)、

雑木林として唯一、国指定天然記念物に指定されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

野火止用水      が流れます。

 

 

 

 

 

 

平林寺堀     に架かる橋。

 

 

「野火止用水」のうち、「平林寺」周辺や境内に引かれたものを「平林寺堀」と呼びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まさに紅葉狩まっさかりもみじもみじもみじ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやぁ~、素晴らしすぎます爆  笑

 

「新座」まで来た甲斐がありました!

前週の「三渓園」がイマイチやったので、ここでうっぷんを晴らしますニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

林の中に、高さ約6mの円形の塚があります。

「平林寺の丘」とよばれる標高50mの弧立丘上にあります。

 

野火止塚(九十九塚)

 

 

 

 

 

火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものかは

定かではありませんが、野火の見張台であったとする説が有力です。

伝説として、平安時代の初め、このあたりを治めていた「藤原長勝」という豪族が、

旧知の間柄である「在原業平」を自分の館に招き大いにもてなしました。

「業平」はここに足を止めているうちに、「長勝」の娘である「青前姫」の美しさに魅かれ、

「青前姫」も「業平」のやさしさに魅かれ、一緒になる約束をしました。

しかし「青前姫」にはすでに嫁入りの話があり、「長勝」はこれを許しませんでした。

そこで2人はある夜、手に手をとって館を逃げ出しました。

2人が逃げた先は四十里四方もある野原のため、

追っ手は追いかけるため火をつけ、火は勢いよく燃え広がって行きました。

我が身の危険を感じた「青前姫」は、”武蔵野は 今日はなやきそ若草の 

つまもこもれり 我もこもれり”と歌いました。(

ああ、どうか今日だけは武蔵野の野原を焼かないでください。

主人と私が身を隠していますから)

すると願いが天に通じたか、不思議なことに今まで燃えさかっていた野火が

あれよあれよという間に消えてしまいました。

この野火が止まったところが「野火止塚」だったといわれています。

「野火止」の地名はこの「野火止塚」に由来するそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、塚がありました。

 

業平塚

 

 

塚の役割としては「野火止塚」と同じと考えられています。

「在原業平」が京から東国への東下りのおりに、

武蔵野が原に駒を止めて休んだところと伝えられています。
かつて塚上に、

”むさし野に かたり伝えし在原の その名を偲ぶ 露の古塚”

という歌碑があったということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴代塔所       への入口。

 

 

 

 

 

 

「平林寺」歴代住職の墓所です。

正面中央の卵塔が開山「石室善玖禅師」、その左に中興開山「鉄山宗鈍禅師」が眠っています。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河内松平家廟所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大河内松平家」は、第3代将軍「徳川家光」、第4代将軍「徳川家綱」に老中として仕え、

「川越藩主」でもあった「松平伊豆守信綱」によって興された一族です。

3,000坪の墓域に、170基余りの墓石が配されます。

墓石数、保存状態の良さとも全国有数の廟所です。

高さ2mの五輪塔が2基並ぶ、「松平伊豆守信綱夫妻の墓」もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安松金右衛門・小畠助左衛門の墓

 

「安松金右衛門」は、「玉川上水」、「野火止用水」の開削に大きく貢献した、

「松平信綱」の重臣です。

「信綱」の長男「輝綱」にも仕え、「川越藩」の新田開発にも携わりました。
墓は1935年(昭和10年)、新宿「大宗寺」より移され、主君の膝元に眠ります。

 

「小畠助左衛門」は川越藩の家老。

 生まれは「丹波国」で「松平信綱」によく仕え、300石取の徒大頭から奏者番へ、

さらには600石取の家老職となり、「川越藩」の藩政を充実させました。

「野火止用水」開削時の家老でもあり、「武蔵野」開発に意を注いだため、

「平林寺」に葬られました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「武蔵野」の古刹の見事な紅葉を、

 

4時間弱にわたって楽しみました♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)