<静岡県>~2015年秋の静岡紀行(4日目・久能山東照宮から日本平、草薙へ②) | 花咲く旅路

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石鳥居より、1,159段の石段を登ってきて、いよいよ「久能山東照宮」を拝観します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見事な     楼門    がお出迎え。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1617年の建造。

入母屋、銅瓦葺、三間一戸、楼門形式。

 軒下中央に「後水尾天皇」の宸筆、「東照大権現」の扁額が掲げてあります。

 中央の蟇股に獏の彫刻があります。

獏は、鉄や銅を食料とすることから、平和の象徴とされています。

表側左右の格子戸内に随身像、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられています。

 

 

 

 

 

 

徳川家康の手形

 

家康38歳の時の手形だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楼門」をくぐると石鳥居があり、その先に「唐門」。

 

 

 

 

 

 

 

家康梅

 

「唐門」下にある白梅は「実割梅」といい、

「徳川家康」が「駿府城」で自ら育てていたものでした。

江戸時代、「駿府城」ではこの「実割梅」から梅干を漬け、

「東照宮」に納める仕来りだったそうです。

1876年(明治9年)に「駿府城」から「東照宮」へ移植されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

鼓楼              神饌所

 

 

「鼓楼」

1618年に建てられたもので、入母屋、銅瓦葺、桁行3間、梁間2間、袴腰付、

外壁は主要構造体が朱色で塗られ、屋根廻りの組物や彫刻などが極彩色で彩られ、

瓦の軒先や垂木の小口、高欄の金物などが金が使用され、袴部は石積になっています。

当初、「久能山東照宮」は神仏習合の形態を持っていたため、

この建物には梵鐘が釣り下がっていましたが、

明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により仏式が廃され、

改めて1873年(明治6年)に旧幕臣であった「小島勝直」が、

「江戸城」にあった太鼓を奉納し「鼓楼」となりました。

 

「神饌所」

1647年の建造。

木造平屋建、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、

外壁は真壁造、横板張、縦押縁押え。

「神饌所」とは神棚に供える供物を調理し格納する施設で、

「台所」としての機能を有しています。

内部はそれらが行える2部屋が配され、

本殿と拝殿を繋ぐ石の間に渡廊によって接続されています。

機能的な建物のため、華美な装飾な少ないものの、

外壁は朱色で塗られ、要所では金を使用し銅瓦で屋根を葺くなどしています。

 

 

 

 

 

 

 

神庫               竈神社

 

 

「神庫」

1617年の建造。

木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、

建物の構造体が朱色に壁が黒色に彩色され、

瓦と木組の端部が金箔欄間部は極彩色で彩られています。

境内の中で唯一の校倉造の建物で、奉納された神宝や鉄砲などが置かれていました。

 

「竈神社」

「神楽殿」の北側の一段高い所にあり、社殿は西向き、

向拝があり見世棚造りの小さな神社です。 

祭神は防火の神で「火産霊命」、「奥津彦命」、「奥津姫命」の三柱です。

1646年に創建されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

稲荷神社 厳島神社       日枝神社

 

 

「稲荷神社 厳島神社」

合殿になって西向きに建っています。

「稲荷神社」の祭神は「保食神」です。

「東照宮」創建以前よりの鎮座と伝えられています。

古来、山上の「愛宕神社」の前に鎮座していましたが、

1884年(明治17年)の暴風により社殿が倒壊したので、

山上から楼門内東側の現在所に遷座されたと伝わっています。

 

「日枝神社」

1618年に建てられたもので、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行3間、

梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り、建物全体が朱色で塗られ、

蟇股や向拝の蝦梁の彫刻などが極彩色で彩られ、

金物や瓦の軒先などが金が使用されています。

当初は「久能山東照宮」の本地堂として、「薬師寺如来像」が安置され、

「薬師堂」と称されてきましたが、明治時代初頭に発令された

神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により、1870年(明治3年)に、

「薬師寺如来像」が「大正寺」へ移され、天台宗の守護神である

「山王社」の御神体を遷して、「日枝神社」に改め末社となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

神厩              五重塔跡

 

 

「神厩」

1618年の建造。

木造平屋建て、切妻、本瓦葺、妻入、桁行3間、梁間2間、

外壁は真壁造板張り、木部は朱色で塗られ、華美な装飾はありませんが

懸魚などが格式を感じさせます。

元々は「徳川家康」の愛馬の厩舎として建てられたもので、

ある時、馬が厩舎に戻らず探していると「家康」の神廟の脇で死んでいた事から、

「左甚五郎」がその愛馬に模して木馬を彫刻して奉納したと伝えられています。

 

「五重塔跡」

3代将軍「徳川家光」の命で、1624年~1645年の「寛永年間」に、

「松平勝政」により建立された建物です。

「松平勝政」は「水野忠分」の5男で、1586年に「松平康俊」の娘婿になると、

「松平家」の家督を継ぎ、「文禄の役」や「関ヶ原の戦い」で「徳川家康」に従軍し、

「大坂の陣」にも参陣、最終的には駿河国有渡郡、安倍郡8千石の旗本となっています。

1633年、当地域が幕府直轄地となり、「松平勝政」が「駿府城」の城代に就任、

久能山総門番が管理下に入ったため、「五重塔」造営に携わったと思われます。

「五重塔」の高さは30mを超え、「東照宮」の中でも象徴的な建物でしたが、

明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により、

1873年(明治6年)に破却され、多くの用材や金物が民間に払下げとなりました。

現在は基礎と礎石だけとなり、中央には「駿府城」の本丸から朝鮮蘇鉄が移植されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

神楽殿             プラモデルが展示されています。

 

 

1617年に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、

建物全体が朱色に彩色され、瓦と木組の端部、金物が金箔で彩られています。

現在はサッシが嵌め込まれていますが当時は開放的な建物でした。

「東照宮」に奉納される神楽が行われる施設でしたが、

実際には行われず絵馬が奉納される絵馬殿のような扱いだったようです。

 

全国のプラモデル出荷額に占める静岡県のシェアは、実に90%を超えるそうです。

静岡では昔から木工が盛んで、木製玩具や家具、

指物、漆塗りなどが地場産業となっています。

こうした産業が栄えたきっかけは、「徳川家康」が駿府に、

全国から優秀な宮大工や建具職人、彫刻師、漆塗り職人などを集めたことに始まります。

「家康」は、城や寺社の造営に力を注ぎ、そのために全国から職人を呼び集めのです。

呼び集められた職人たちの多くは、築城や造営の仕事が終わった後も、

その住みやすさから、静岡にとどまりました。

静岡に根を下ろした職人たちの技術が継承されていった結果が、

模型産業の隆盛につながりました。

 

 

 

 

家紋である「三つ葉葵」に、15代にわたる徳川将軍の名が彫られていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唐門

 

 

 

 

 

 

1617年の建造。

「久能山東照宮」の中核部である本社社殿の正面に配され、正門的な役割を持っています。

形式は四方唐破風造り、四脚門、一間一戸、本瓦葺き。

構造部は朱色で塗られ、木鼻や門扉、蟇股、唐破風などには、

唐獅子や鳥類、植物など多彩な彫刻が随所に施されています。

彫刻は極彩色で彩られ、金物や本瓦の軒先、獅子口には金を使用しています。

 

 

 

 

 

 

 

拝殿

 

 

 

 

1617年の建造。

入母屋、銅瓦葺、屋根正面には千鳥破風、桁行5間、梁間2間、3間向拝付、

棟梁は中井正清です。

外壁は黒の漆塗り、金物の多くは金で仕上げられ、

組物や木鼻や蟇股、海老虹梁などの彫刻、桁に描かれた絵画は極彩色が施されています。

本社社殿は本殿、拝殿、石ノ間が接続し一体となっている「権現造」で、

この後、造営される「日光東照宮」をはじめ、全国の東照宮の規範となっています。

 

 

 

 

 

 

玉垣

 

 

「玉垣」は社殿の周囲にめぐらされた垣です。

 玉垣腰に92枚、渡廊下腰に14枚、計106枚の彫刻があり、

それぞれ一枚の板を彫り上げた透彫で、生彩色を施しています。

106枚の彫刻のうち、鳥を扱ったものが圧倒的に多く、その中でも小鳥が45枚あり、

そのほとんどが2羽か3羽で、長かった戦乱期を経て「家康」によってもたらされた

平和の世を謳歌しているように見えます。

またその背景には満開の梅の花、

自由に延びている蒲の穂、枇杷の丸やかな実、今にも割れて落ちそうな栗の実、

垂れ下がる粟の穂等五穀豊饒、花咲く世を現し見応えがあります。

その他、鷺、鶴、孔雀、鷹などが格狭間一杯に彫られ、

動物では狛犬が11枚、他に唐獅子、木鼠、虎、麒麟、蟷螂、揚葉の蝶があります。

これらの彫刻をした作者名は残されていません。

 

 

 

 

 

 

本殿

 

1617年の建造。

入母屋、銅瓦葺、桁行3間、梁間3間、棟梁は中井正清。

内部に安置されている三間の厨子には、

「徳川家康」、「織田信長」、「豊臣秀吉」が祀られています。

外壁は黒の漆塗り、金物の多くは金で仕上げられ、

組物や木鼻や蟇股などの彫刻は極彩色が施されています。

 

 

 

 

 

 

 

「権現造」。

 

 

 

 

 

 

境内に自体はそんなに広くはないですが、さすがに「東照宮」の基ということで、

建物も煌びやかさもすごいです。

感嘆モノですね~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大蘇鉄

 

 

樹齢650年、幹の太さ2mの「蘇鉄」が植えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿後方の     廟門    をくぐって「神廟」へ。

 

1618年に建てられたもので、向唐破風造、銅瓦葺、四脚門、建物は朱色で塗られ、

軒先や金物に金を使用した格式の高いものです。

 

 

 

 

 

 

 

参道の両側には大名が寄進した石灯篭が建立され、境内には「神廟」の他に、

「神廟」の傍らで死去したとされる「家康」の愛馬の墓、「金の成る木」などがあります。

 

廟所の石垣は、1617年の造営時に築かれましたが、年を経て崩落の恐れが生じました。
       このため、1833年、廟所宝壇西側の石垣の一部に「添石垣」を設けて、

石垣を二重にし、当初の石垣の崩落を抑えてきました。
       

 

 

 

 

 

神廟

 

「神廟」は「廟門」より約40段の石段を登った所にあります。

祭神「徳川家康」の遺骸を埋葬し奉った場所で、以前は「御宝塔」と称えていました。

1616年、創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、

1640年に3代将軍「徳川家光」により、現在の石造宝塔に造替されました。

宝塔の高さは、5.5m、外廻り約8m、前面に唐戸があります。

軒の四隅に唐銅の風鐸が掛かっています。
「神廟」は家康の遺命により西向きに建てられています。

西の方には、「家康」の両親が子授け祈願の参籠をされたという言い伝えを持つ、

「鳳来寺」があり、さらにその西に岡崎の松平家の菩提寺「大樹寺」、

「家康」誕生の地である「岡崎城」があります。

そしてその延長線は京の都へと続いています。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)